25歳の僕の歩み

このブログは、私が25歳の時にmixiに書いた日記を改めて読み返し、多少加筆訂正したものです。ご一読頂ければ幸いです。 南無阿弥陀仏

お釈迦さまの教え -四つの苦しみ-

2011, 5, 21

 

今回は、お釈迦(しゃか)さまの教えの中の 「四苦(しく)」ということについて書いてみたいと思います。

 

もしかしたら、「四苦八苦(しくはっく)」という言葉なら聞いたことがあるという方もおられるかもしれませんね。日常会話の中で、さんざんに苦労した時などに、「~で四苦八苦したよ」なんて使うことがあるかもしれません。

この「四苦八苦」というのも、元々は仏教用語なんです。これは、簡単にいうと、「四つの苦しみ、八つの苦しみ」ということです。

ここで一つ注意が必要なのは、

「四つの苦しみ」 + 「八つの苦しみ」 = 「十二の苦しみ」

ということではないということです。まず、「四つの苦しみ」というものがあり、そこにさらに別の「四つの苦しみ」を加えると「八つの苦しみ」になるということです。なので、今回はまず最初の「四つの苦しみ」というものに焦点を当てて、紹介してみようと思います。

 

ただ、実は今回はいつもの日記とちょっと違っています。

 

それは、今回の日記が、以前、僕が作った法話を元にして書いてあるからです。なので、今回は読み手の方に語りかけるような文章になっています。また、今回は法話の内容をほとんど削ることなく、なるべくそのままの形で掲載しているため、とても長くなってしまいました。だけど、僕にとってはどれも大切なところなので、読み手の方のペースで、できれば最後まで読んでいただければと思います。

 

それでは始めます。

 

早速ですが、読み手の方に聞いてみたいことがあります。あなたは、今生きている「この世界」をどのように思いますか?

楽しいことがいっぱいの天国のような世界だと思いますか?

それとも、悪いことだらけ、苦しいことだらけの地獄のような世界だと思いますか?

 

僕にとってはですね、何かおいしいものを食べてるときとか、友達と楽しく話をしてる時とか、ゆっくり朝寝坊できる時など、心が満ち足りている時は、とっても幸せないい世界だと感じます。

だけど、勉強しなきゃいけないことがたくさんたくさん山のようにあるときや、お経を読むときの正座が痛くてたまらない時とか、仲間外れにされたと思って寂しくなった時とか、自分の思い通りならない時には、ほんとに苦しい嫌な世界だなぁと思います。

 

さて、あなたは「お釈迦さま」をご存知ですか?以前の日記でも少しふれてきましたが、お釈迦さまはインドで生まれた方で、この世界に生きている間にお悟りを開かれて、仏さまに成られた方です。

それでは、「四苦」という言葉を、今まで聞いたことがありますか?さっきの世界の話に戻りますが、お悟りを開かれ、仏さまと成られたお釈迦さまは、

「この世界は苦しみの世界だよ」

とおっしゃいました。じゃあ、どんな苦しみがあるのかというと、この「四苦」という四つの苦しみがあるとおっしゃいました。

 

それでは、その四つの苦しみとはどんなものなのかを、一つずつ観ていきたいと思います。

まず一つ目は、「生(しょう)」です。これは「生きる」という漢字です。また、「生まれる」とも読みます。四つの苦しみの中の一番目は、この「生」という「生まれる」苦しみです。どういうことかというと、お釈迦さまは、

「この世界は苦しみの世界だよ」

とおっしゃったのは、さっき話しましたね。その苦しみの世界に生まれてくる苦しみが、「生」という苦しみです。

また、生まれてくるときに、ものすごい苦しみを味わうといわれています。生まれてくる前ってどこにいましたか?

もちろん、お母さんのお腹の中にいましたね。それじゃあ、あなたはお母さんのお腹の中にいた時のことを覚えていますか?

おそらく、覚えていないのではないでしょうか。僕も全く覚えていません。ただ、僕には11歳も歳の離れた妹がいるんですが、その妹が2歳か3歳くらいのときに、

「お母さんのおなかの中にいた時のこと覚えてる?」
と聞くと、

「うん、覚えてるよ」

と答えてくれました。「とっても狭かった」とか、「なんか音が聞こえた」とか、他にもいくつかお腹の中にいた時のことを話してくれました。

もう今は、さすがに妹も忘れていますけど、人によっては小さい時に、お母さんのお腹の中にいた時の記憶が残っているみたいですね。

まぁ、お腹の中にいた時のことはそうなんですけど、そこから生まれてくる時、お母さんのお腹の中から出てくる時に、ものすごい苦しみを受けるといわれています。お母さんも痛いけど、赤ちゃんも必死になってもがきながら外に出てこようとするみたいです。それに、お腹の中と外では全然違う世界です。だから、外に出てきたときに、ものすごい苦しみを受けるといわれています。

また、それがあまりにも苦しいので、前の世界のことをきれいさっぱり忘れてしまうそうです。仏教では、僕たちは六道という六つの世界を生まれては死にを繰り返しながらグルグルと回りつづけているといわれています。そういう世界をグルグル回りながらきたんだけど、生まれてくる時のあまりの苦しさで、自分がいた前の世界のことをすべて忘れてしまうそうです。

そういうのが生まれる苦しみである「生苦」という苦しみです。

※前の世界(前生)や六道については、2011/5/11の「仏教の世界観1」という日記でふれています。よかったら参考にして下さい。

milleface.hatenablog.com

 

では次に、二番目の「老(ろう)」にいきます。これは「老いる」という字です。人間は一年たつと、歳を一ずつとっていきます。それは、成長しているということでもあるけど、同時に年老いていっているということでもあります。

自分の年齢について、読み手の方によっていろいろ思いはあるとは思いますが、僕は25歳なので、まだまだ若いと思っていたんですが、最近、子どもから「オジン!オジン!」と言われてしまいました。「失礼なやつだなぁ」と思いましたが、どうやら僕も年老いていっているようです。

それじゃあ、年老いていくとどうなりますか?

だんだん、この体が、この頭が、自分の思う通りに動かなくなってきますね。耳が聞こえなくなってきたり、目が見えなくなってきたり、歩くのにも足が痛くて思うように動けなくなってきたり、ボケてきて自分が何をしているのかがわからなくなってきたり。老いの苦しみというのは、そういうことですね。

そして、その「老い」からは、誰も逃れることはできません。

 

さて、では次に三つ目の「病(びょう)」にいきます。病気の「病」です。「やまい」とも読みますね。

じゃあ、質問です。あなたは今まで病気にかかったことがありますか?

読み手の方によって、いろいろな応えが返ってくるとは思いますが、病気にかかると苦しいですね。

そして、お釈迦さまは、

「この病気の苦しみからも、誰も逃れることはできませんよ」

とおっしゃいました。

 

さぁ、そしてさっきの「老い」とこの「病気」から行き着くとこはどこですか?年老いて病気にもなったら、どうなりますか?

死にますね。四つの苦しみの最後は、「死」です。

「この世界に生れたからには、誰も「死」から逃れることはできませんよ」

とお釈迦さまはおっしゃっています。

しかも、年老いて病気になって死ぬこともあるけれど、ひょっとしたら、まだ若くて子どもでも病気になって死ぬかもしれないし、病気じゃなくても事故で死ぬかもしれない。

「いつ死ぬかは、決して自分の思い通りにはならない」

ということをお釈迦さまは教えてくださっています。

つまりお釈迦さまは、

「今話してきた、生老病死(しょうろうびょうし)の四つの苦しみからは、決 して逃れることはできませんよ」

とおっしゃっています。だから、

「この世界は苦しみの世界ですよ」

とおっしゃられたんですね。

 

それじゃあここで、今回はこの四つの苦しみの中の「病」について、僕の子どもの時の話を少ししてみたいと思います。

僕の家は、普通の家と少し違います。どういうことかというと、僕の家はお寺なんです。僕はお寺の子どもとして生まれました。あなたはお寺に行ったことはありますか?

お寺の子どもとして僕は生れたんですけど、実は、僕には優しいおばあちゃんがたくさんいます。僕の家のお寺には、近所のおばあちゃんたちが手伝いに来てくれるんです。(もちろん、おじいちゃんもいますし、おじさん、おばさん、お兄さんやお姉さん、そして子ども達もいます)

そして、そのおばあちゃんたちの中でも、とびっきり大好きだったおばあちゃんがいました。何でそのおばあちゃんが大好きだったかというと、理由があります。

これは、僕が小学校1年生か2年生くらいの時のお話です。このおばあちゃんの自転車には、タイヤが三つも付いていました。おばあちゃんの自転車は、前に二つ、後ろに一つタイヤがついている自転車でした。その時の僕は、まだコロの付いてる小さい自転車にしか乗れなかったんですが、このおばあちゃんの自転車にはタイヤが三つも付いてるので、乗ることができたんですね。しかも、その自転車は僕のよりもずっと大きかった。だからもう、その自転車に乗るのが楽しくて楽しくてしかたがありませんでした。だから僕は、そのおばあちゃんが大好きでした。

それから、僕の家では、おばあちゃんたちに手伝ってもらって、お餅をつきます。年末とか、あと降誕会(ごうたんえ:親鸞聖人のご誕生をお祝いする浄土真宗の行事)のときに「餅まき」をするんですね。僕の大好きなおばあちゃんは、その時のお餅つきのお手伝いによく来てくれていました。僕は、お餅をつくのを手伝ったり、邪魔したり、手伝ったり、つまみ食いしたり、そして、あの自転車に乗ったりしながら、楽しくやんちゃに過ごしていました。

でもそれから、おばあちゃんも歳をとってなかなか手伝いに来れなくなっていきました。そして、僕もだんだん学校が忙しくなってきて、おばあちゃんとは会うこともなくなっていきました。

 

そんな中、僕が高校生の時、お父さんからそのおばあちゃんが病気になったということを聞きました。おばあちゃんの病気は、癌(がん)でした。しかも、すでに体中に転移してしまっていて、もう治ることはないだろうということでした。

僕はその時、小学生の時の自転車やお餅つきのことを思いだし、悲しくなりました。

そして、お父さんと一緒にお見舞いに行くことになりました。おばあちゃんが病気になって悲しい気持ちもあったけど、久しぶりにおばあちゃんに会えるということで、お見舞いに行くことは少し楽しみでもありました。

だけど、お見舞いに行っておばあちゃんに会ってみたら、その悲しい気持ちも、楽しみな気持ちもパッとなくなりました。

なんでだか分かりますか?

 

それはね、そこに横たわっていた人が、目の前の病院のベッドの上で寝ている人が、誰だかわからなかったからです。

 

僕は一生懸命、小学生の時のおばあちゃんとの思い出を思い出そうとしました。だけど、どうしてもそこにいる人と、僕の記憶の中のおばあちゃんとが結びつきませんでした。

そこにいた人は、ガリガリにやせて、もう骨と皮のような状態。肌の色も、抗がん剤の影響で黄色く変色していました。体も、とてもお餅つきの手伝いをしていたとは思えないほど、弱々しくなっていました。

だけど、僕がお寺の息子の真之だとわかると、嬉しそうに笑顔を向けて、弱々しくだけど、ゆっくりと僕の方に手を差し伸べてくれました。

 

それが、僕とおばあちゃんとのお話です。

今回、僕がこの話をしたのは、読み手の方を恐がらせたり、脅かしたりするためではありません。ただ、この「病苦」からは誰も逃れることはできないということを伝えたくて、この話をしました。

もちろん、僕はこんな恐ろしい病気にはかかりたくありません。だけど、

「あなたが生きているこの世界は、その苦しみから逃れることはできませんよ」

という本当のことを、お釈迦さまは教えてくださっています。だから、今回は僕の大好きなおばあちゃんの話だったけど、僕自身も、いやでいやでしかたがないけれど、この「病苦」から逃れることはできません。

それだけじゃなく、今回話してきた生、老、病、死の四つの苦しみからは、誰ひとりとして逃れることはできません。それが、僕たちが今、生きている「この世界」の、本当の、ありのままの姿なんですよと、お釈迦さまは教えてくださっています。

 

だけど、お釈迦さまが教えて下さったのは、これだけじゃありません。

「この苦しみの世界を超えていくための道があるよ。 阿弥陀さまという仏さまが、「南無阿弥陀仏」ただ一つで、必ずあなたを救ってみせると願い、誓ってくださっているよ」

と教えてくださっています。

「だから、どうか早く、今生きている間に、「南無阿弥陀仏」と称えておくれ。どうかこの「南無阿弥陀仏」を受け取っておくれ」

と、頭を下げられ、お願いされています。その願いは、生きとし生ける全てのものに。そしてそれは、この私ひとりのために。阿弥陀という仏さまは、今この瞬間も、絶えず願い続けておられます。

 

以上で、僕の話はお終いです。

この話は、実は日曜礼拝(にちようらいはい)という小中学校の子どもたちを中心とした集まりの中でした法話を元にしています。(「日曜学校」という言葉を耳にされたことがある方も、おられるかもしれませんね)

また、僕が今お手伝いをさせていただいている日曜礼拝では、法話の後に、いくつかのグループに分かれて 分級(ぶんきゅう)という時間を20~30分程度持ちます。分級とは、今聞いた法話はどんな話だったのかを確認したり、法話を聞いてどんなことを思ったり感じたりしたか、また、普段の生活の中での思いなどを話し合う時間です。

その分級の時間を通して、法話を聞いてくれた子ども達自身の中で深まっていくものもありますし、子ども達の声を通して、先生として参加させてもらっている僕自身も考えさせられ、学ばせてもらうことも多くあります。

また、日曜礼拝には、大人の方も参加されています。そして、大人の方は大人の方の少し長めの分級もあります。ですので、今僕がお手伝いさせていただいている日曜礼拝は、子どもも大人も共に仏さまの教えを聞き合う場になっています。

もちろん、子ども達は分級の後に、おやつやゲームもあります。これも、僕にとっては楽みなことの一つです。

 

さて、今回の日記では宗教的な言葉がたくさん出てきました。もし、疑問や興味・関心を持たれた方は、コメントやメッセージを通して聞いていただければ幸いです。今の僕にできる範囲ではありますが、しっかりと返答させていただきたいと思います。

それでは、長くなりましたが、今回はここで終っておきます。最後まで読んでいただいた方、ありがとうございました。