阿弥陀という仏さま2 -法蔵さまの「願い」と「誓い」-
2011, 6, 29
さて、今回は前回の続きです。
「阿弥陀という仏さま」についての日記ということで、阿弥陀さまが仏さまになられるまでの話を、『仏説無量寿経(大経)』というお経をもとに、物語として引き続き紹介していきたいと思います。
世自在王(せじざいおう)さまは、法蔵(ほうぞう)さまの志が実に尊く、とても深く広いものであることをお知りになり、法蔵さまのために、ひろくさまざまな仏がたの国々に住んでいる人々の善悪と、国土の優劣を説き、法蔵さまの願いのままに、それらをすべてまのあたりにお見せになりました。
そのとき法蔵さまは、世自在王さまの教えを聞き、それらの清らかな国土のようすを詳しく拝見して、ここに、この上なくすぐれた願(がん:願い)を起こされました。その心はきわめて静かであり、その志は少しのとらわれもなく、すべての世界の中でこれに及ぶものはありませんでした。そして五劫(ごこう)という極めて長い間、思いをめぐらして、浄土をうるわしくととのえるための清らかな行(ぎょう:修行の方法)を選び取られました。
さて、ここで「劫(こう)」ということについて、少し解説を加えておきたいと思います。「劫」とは、極めて長い時間の単位のことです。その長さには、いくつかの譬えがありますが、その中の一つに次のようなものがあります。
1辺が40里(中国の換算比で約20km)の巨大な岩を100年に1度、天女が舞い降りて羽衣でサッと撫で、岩がすり切れてなくなってしまうまでの時間。これが一劫の長さです。なんというか、想像することもできないような途方もないくらい長い時間ですね。そして法蔵さまは、五劫という長い間、思いをめぐらされたのでした。
それでは、再び物語へと戻ります。
さて法蔵さまは、こうしてさまざまな仏がたが浄土をととのえるために修められた清らかな行を選び取られました。このようにして願と行を選び取りおえて、世自在王さまのおそばへ行き、手を合わせてひざまずき、
「世自在王さま、私はすでに、浄土をうるわしくととのえる清らかな行を選び 取りました。」
と申しあげました。世自在王さまは法蔵さまに対して、
「そなたはその願をここで述べるがよい。今はそれを説くのにちょうどよい時である。すべての人々にそれを聞かせてさとりを求める心を起こさせ、喜びを与えるがよい。それを聞いた修行者たちは、この教えを修行し、それによってはかり知れない大いなる願を満たすことができるであろう。」
と仰せになりました。そこで法蔵さまは、世自在王さまに向かって、
「では、どうぞお聞きください。私の願を詳しく申し述べます。」
といって、四十八(しじゅうはち)の願いを述べていかれました。
さて、法蔵さまはここから、四十八の願いを一つずつ述べられていくのですが、その全てをあげていくと、とても長くなってしまいますので、今回はその中から五つほど紹介します。
まず、第十一番目の願い。
私が仏になるとき、私の国の人々が必ずさとりを得ることがないようなら、私は決してさとりを開きません。
この願いは、全ての人々に必ずさとりを開かせることを誓われた願いです。
次に、第十二番目、第十三番目の願い。
私が仏になるとき、光に限りがあって、数限りない仏がたの国々を照らさないようなら、私は決してさとりを開きません。
私が仏になるとき、寿命に限りがあって、はかり知れない遠い未来にでも尽きることがあるようなら、私は決してさとりを開きません。
この二つの願いは、「無限のひかり」と「無限のいのち」をそなえた仏さまになることを誓われた願いです。
次に、第十七番目の願い。
私が仏になるとき、すべての世界の数限りない仏がたが、みな私の名前をほめたたえないようなら、私は決してさとりを開きません。
この願いは、ご自身のお名前をすべての仏がたにほめたたえていただくことを誓われた願いです。もちろんこれは、自分の名誉欲を満たすためのものではありません。実は、法蔵さまの願われた「すべての人々を救いたい」という願いを実現させるには、この願いがどうしても必要だったのです。
その救いの願い。それが第十八願です。
私が仏になるとき、すべての人々が心から信じて、私の国に生まれたいと願い、わずか十回でも私の名前を称えて、もし生まれることができないようなら、私は決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗る(そしる)ものだけは除かれます。
浄土真宗では、この「第十八願」こそが四十八の願いの中の根本の願いであるとしています。むしろ、四十八の願いは、すべてこの「第十八願」から出たものであるとみていきます。それほどに、この「第十八願」とは重要な願いなのです。また、「第十八願」は四十八願の中の根本の願いということで、「本願(ほんがん)」ともいいます。(ちなみに、自分の得意分野などを「十八番(おはこ)」といったりしますが、おそらくこの第十八願を重視するというところから派生した言葉だと思います。)
また、今紹介してきた五つの願いに共通してある言葉。
「私が仏になるとき、~でないようなら、私は決してさとりを開きません。」
ここに、法蔵さまの説かれた四十八願の大きな特徴があります。これは、
「もしこの願いをかなえることができなければ、私は絶対に仏にはなりません。」
と誓っておられるということです。このことは、例えば、もし誰かがお医者さんになるときに、
「もしすべての患者さんを救えないようならば、私は決して医者にはなりません。」
と誓われているようなものです。このように、法蔵さまはご自身のすべてをかけた「誓い」を立ながら、一つひとつの「願い」を説かれたのです。(ちなみに、今回紹介しなかった他の願も、同じ願い方をされています。)
さて、では今回はここまでにしておきたいと思います。そして、「阿弥陀という仏さま」は、次回で一区切りにしたいと思います。
☆☆参考文献☆☆