阿弥陀という仏さま3 -法蔵さまの修行、そして「南無阿弥陀仏」の名のり-
2011, 7, 1
さて、今回も前回の続きです。そして、「阿弥陀という仏さま」は、今回でいったん一区切りにしたいと思います。
それでは早速、『仏説無量寿経』をもとにした阿弥陀さまの物語の続きに入っていきたいと思います。
法蔵さまは、四十八願を述べおわってから、重ねてその願いの要旨を説いた唄をうたわれました。(この唄のことを「重誓偈(じゅうせいげ)」といいます。)
法蔵さまがうたい終わられると、そのとき大地はさまざまに打ち震え、天人は美しい花をその上に降らせました。そしてうるわしい音楽が流れ、空中に声が聞こえ、
「必ずこの上ないさとりを開くであろう。」
と法蔵さまをほめたたえました。ここに法蔵さまはこのような大いなる願をすべて身にそなえ、その心はまことにして偽りなく、世に超えすぐれて深くさとりを願い求めたのでした。
そしてこの願をたておわって、国土をうるわしくととのえることにひたすら励まれました。その国土は限りなく広大で、何ものも及ぶことなくすぐれ、永遠の世界であって衰えることも変わることもありませんでした。このため、はかり知ることのできない長い年月をかけて、限りない修行に励み、功徳を積んだのでした。
貪りの心や怒りの心や害を与えようとする心を起こさず、また、そういう想いを持ってさえおられませんでした。すべてのものに執着せず、どのようなことにも耐え忍ぶ力をそなえて、数多くの苦をものともせず、欲は少なく足ることを知って、貪り・怒り・愚かさを離れておられました。そしていつも精神統一の境地に心を落ちつけて、何ものにもさまたげられない智慧を持ち、偽りの心やこびへつらう心はまったくありませんでした。表情はやわらかく、言葉はやさしく、相手の心を汲み取ってよく受け入れ、雄々しく努め励んで少しもおこたることがありませんでした。ひたすら清らかな善いことを求めて、すべての人々に利益を与え、仏さまと、仏さまの教え、そしてその教えのままに修行をする僧侶を敬い、師や年長のものに仕えられました。その功徳と智慧のもとにさまざまな修行をして、すべての人々に功徳を与えられました。
また自分を害し、他の人を害し、そしてその両方を害するような悪い言葉を避けて、自分のためになり、他の人のためになり、そしてその両方のためになる善い言葉を用いられました。国を捨て王位を捨て、財宝や妻子などをもすべて捨て去って、すすんで修行し、他の人にもこれを修行させました。このようにしてはかり知れない長い年月の間、功徳を積み重ねられたのでした。
そして、法蔵さまはすでに阿弥陀という仏さまとなっておられ、さとりを開かれてから、およそ十劫の時が経っています。(「劫」については、前回の日記で解説をしていますので、よかったら参照してください。)
阿弥陀さまの国土は七つの宝でできており、実にひろびろとして限りがありません。そしてそれらの宝は、互いに入りまじってまばゆく光り輝き、たいへん美しく、そのうるわしく清らかなようすは、すべての世界に超えすぐれています。
また、地獄や餓鬼や畜生などのさまざまな苦しみの世界もなく、春夏秋冬の四季の別もありません。いつも寒からず暑からず、調和のとれた快い世界です。(地獄、餓鬼、畜生については、2011/05/11「三世と六道」の日記で詳しく紹介しているので、よかったら参照してみてください。)
すべての世界の数限りない仏がたは、みな同じく阿弥陀さまのはかり知ることのできないすぐれた功徳を ほめたたえておいでになります。すべての人々は、阿弥陀さまの名号(みょうごう)のおいわれを聞いて 信じ喜ぶ心がおこるとき、それは阿弥陀さまがまことの心をもってお与えになったものであるから、阿弥陀さまの国に生まれたいと願うたちどころに往生(おうじょう:阿弥陀さまの国に生まれること)する身に定まるのです。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。
以上で阿弥陀さまの物語はお終いです。
さて、最後に「南無阿弥陀仏」について、少しお話ししておこうと思います。(「南無阿弥陀仏」の読み方には、いろんなものがあります。例えば、「なむあみだぶつ」とか「なんまんだぶ」とか「なんまんだー」などがあります。)
法蔵さまの願いの中で出てきた「私の名前」や、阿弥陀さまの「名号」というのは、実はこの「南無阿弥陀仏」のことなのです。「南無」とは、元々インドの「ナマス」という言葉で、「心から信じ敬う」という意味です。また、浄土真宗の開祖とされる親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、「仰せにしたがう」とも解釈されています。
つまり、「南無阿弥陀仏」とは、
「阿弥陀さまを心から信じ敬う。」
もしくは、
「阿弥陀さまの仰せにしたがう。」
という意味になります。
そして、その南無阿弥陀仏の「おいわれ」を聞くというのは、仏願の生起本末を聞く、ということです。
仏願の生起とは、「どうして法蔵さまが願いを起こして修行をされて、阿弥陀さまとなられて「南無阿弥陀仏」をおつくりになられたのか。」ということです。
仏願の本末とは「おつくりになられた「南無阿弥陀仏」のお救いというのは、いったいどんなものなのか。」ということです。
仏願の生起と本末、この二つを聞くことこそ、浄土真宗の教えの本質であり、浄土真宗の教えはすべて、そのことをこの私が聞き開くために説かれた教えです。
さて、三回にわたって「阿弥陀という仏さま」について書いてきました。長い日記になりましたが、最後まで読んでいただいた方、ありがとうございます。
また回を改めて、浄土真宗の教えについて、僕が聞かせていただいているところで書いていきたいと思います。
☆☆参考文献☆☆