25歳の僕の歩み

このブログは、私が25歳の時にmixiに書いた日記を改めて読み返し、多少加筆訂正したものです。ご一読頂ければ幸いです。 南無阿弥陀仏

浄土真宗の教え1 -後生の一大事-

2011, 7, 12

 

今回は、仏教の中でも「浄土真宗」に焦点をあてて、「後生(ごしょう)の一大事(いちだいじ)」について書いてみたいと思います。

書いていくんですが、その前に、この日記は、仏教の教えや考え方を読み手の方に押し付けるのが目的ではありません。ただ、僕自身が今喜ばせていただいている仏教、僕の場合は浄土真宗になりますが、そこのところをぜひ紹介したいなぁという思いで書いています。ですので、ご自身のペースで読んでいただければ幸いです。

 

さて、ではまずこの「後生の一大事」という言葉ですが、実はこれは、お釈迦さまの説かれたお経の中や、浄土真宗の開祖とされている親鸞聖人の書物の中に出てくる言葉ではないんです。

この言葉は、蓮如上人(れんにょしょうにん)という方が示された言葉です。

少しややこしくなるかもしれませんが、実は「浄土真宗」と一口にいっても、「本願寺派」「大谷派」「高田派」「仏光寺派」「興正寺派」などなど、いろんな「宗派(しゅうは)」があるんです。その中でも、僕は「本願寺派」というところに所属しています。

本願寺派は、その名前のとおり「本願寺西本願寺)」というお寺を本山(ほんざん:宗派を取りまとめるお寺)としています。そして、親鸞聖人を第一代目の門主(もんしゅ:本山の住職)として、第八代目の門主蓮如上人です。蓮如上人の代に、本願寺は急速に発展・拡大をしました。蓮如上人については、いろいろと紹介しておきたいこともあるのですが、今回はここでとどめておこうと思います。

そして、蓮如上人が浄土真宗の教えのお心を取りだして示された言葉が、「後生の一大事」です。

 

さて、それでは言葉の中身に入っていきたいと思います。

まず、「一大事(いちだいじ)」ということ。人生の中では、人それぞれ大事なものがたくさんあると思います。例えば、「家族」、「友達」、「お金」、「家」、「服」などなど、いろんなものを挙げることができます。

だけど、その「大事」という言葉に「一」がつく。つまり、「一番の大事」ということです。そして、「唯一の大事」ということでもあります。これが「一大事」です。

そして、その「一大事」は、「後生(ごしょう)」だというのです。後生とは、後(のち)の世ということ。

生まれる前の前世のことを前生(ぜんしょう)、今生きているこの世のことを今生(こんじょう)、そして、死んで出ていくあの世のことを後生(ごしょう)といいます。

 (このことについては、2011/05/11「三世と六道」の日記で詳しくふれていますので、よかったら参照してみてください。)
milleface.hatenablog.com

 

  「その後生にこそ、一大事があるぞ。」

「後生こそが一大事だぞ。」

これが、「後生の一大事」という言葉の意味です。

そして、この世で生きている今生の間に、「後生の一大事」を解決するための教えが、浄土真宗の教えです。浄土真宗の教えは、この「後生の一大事」を心にかけて聞いていく教えなんです。

 

よく、「死んだらみんな仏さま」というような内容の言葉を耳にしますが、実はそれは、とんでもない誤りです。浄土真宗の教えは、そのような教えではありませんし、そもそも「仏教」は、そのような教えではありません。

この私が仏になるための教えが、「仏教」です。だけど、もし「死んだらみんな仏さま」というのであれば、そもそも「仏教」という教えが存在する意味がなくなってしまいます。

以前の日記で、聖道門(しょうどうもん)と浄土門(じょうどもん)という仏教の教えの分け方を紹介しました。

 (「聖道門」と「浄土門」は、2011/06/15「どうして仏教にはいろんな宗派があるのか? 」という日記で紹介していますので、よかったら参照してみてください。)
milleface.hatenablog.com

 

 仏教の教えは、大きくこの二つに分けることが出来るのですが、そこのところで考えてみるならば、聖道門の教えは、この世の中(今生)で一生懸命修行をしてさとりを開き、仏さまになろうとする教えです。

浄土門の教えは、阿弥陀仏という仏さまの願力(がんりき)によって浄土(じょうど:仏さまの国)へ往生(おうじょう)して、そこでさとりを開き、仏さまになろうとする教えです。浄土に往生するのは、死後、つまり後生ということになりますが、そこのところを今生で(人間として生きている時に)聞き開かせていただくのが、浄土門の教えです。

つまり、どちらの教えも、「死んだらみんな仏さま」というような教えではないのです。むしろ、その背景に「六道(ろくどう)」という思想があるように、このまま死んでゆけば、それぞれの因果に応じて、六つの世界を再び迷っていくことになるぞというのが、仏教の教えです。

 (「六道」については、2011/05/11「三世と六道」という日記で詳しく紹介していますので、よかったら参照してみてください。)
milleface.hatenablog.com

 

 また、死んだ先、後生には、たった独りで出ていかなければなりません。

どんなに仲のいい友達も、やさしい家族も、一生懸命働いて稼いだ財産や、地位や名誉も、そして、自分自身のこの体も、すべてを捨てて、すべてをはぎ取られ、たった独りで出ていかなければなりません。

 

そして、後生には「ちょっとまった!」ができません。

今生のできごとでは、「ちょっとまって」とお願いすることができます。失敗しても、「次は頑張ろう」と再びやり直すことができます。

だけど、後生はそうはいきません。当たり前の話ですが、

「あぁ、死ぬのはもうちょっと待ってくれ。」

ということはできないのです。

この私の出ていく先にこそ、一大事があるのだと説くのが、浄土真宗の教えであり、そして、この私の出ていく先の一大事を解決するための教えが、浄土真宗の教えです。

 

さて、それでは最後に、蓮如上人がお書きになった「白骨の御文章」というお手紙の一節と、その訳を載せて終わりたいと思います。

 

されば人間のはかなきことは老少不定(ろうしょうふじょう)のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 

人の世のはかないことは、老人が先に死に、若者が後で死ぬとは限らないというこの世界のならいです。ですから、どの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀さまを深くおたのみ申し上げて、「南無阿弥陀仏」と念仏を称えさせていただくべきです。あなかしこ、あなかしこ。