25歳の僕の歩み

このブログは、私が25歳の時にmixiに書いた日記を改めて読み返し、多少加筆訂正したものです。ご一読頂ければ幸いです。 南無阿弥陀仏

法然聖人のご生涯1 -道を求めて-

2011, 7, 29

今回は法然源空聖人(ほうねんぼう げんくうしょうにん)という方について、そのご生涯を今回と次回の二回に渡って書いてみたいと思います。

 

法然聖人は、浄土宗の開祖(かいそ:浄土宗を開いた人)であり、浄土真宗の開祖とされている親鸞聖人(しんらんしょうにん)のお師匠さまにあたる方です。

浄土真宗という宗派ができるまでにはいろいろな過程があるのですが、親鸞聖人ご自身は、唯円(ゆいえん)というお弟子が書かれた『歎異抄(たんにしょう)』という書物の中でこのように述べられています。

(原文)

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細(しさい)なきなり。

(訳)

この親鸞においては、「ただ南無阿弥陀仏と念仏して、阿弥陀さまに救われ往生させていただくのである」という法然聖人のお言葉をいただき、それを信じているだけで、他に何かがあるわけではありません。

 

つまり、親鸞聖人は法然聖人の教えをそのまま信じ、受け継がれたという立場に立たれておられるんです。そのようなこともあり、法然聖人は浄土真宗の教えに深く関わっておられる方なんです。

 

さて、それでは法然聖人のご生涯についての話題に入っていきたいと思います。

1133年、平安時代の末期。法然聖人は美作国(みまさかのくに:岡山県)にお生まれになりました。

そして、法然聖人は9歳の時、夜襲にあい、目の前で父を亡くします。父は死に臨んで、一人息子の法然聖人に遺言をされました。その遺言は、『黒谷源空上人伝』の中で次のように伝えられています。

(取意)

私はこの傷によって死んでいかねばならない。しかし、決して敵を恨んではならん。もしもお前が仇(かたき)を討つようなことがあれば、親から子へ、子から孫へと、仇討ちの争いは絶えることはない。生きている者は誰でも死にたくはないのだ。私はこの傷に痛みを感じているが、他の人もまたそう感じないはずがない。私はこの命を大切だと思うが、他の人もまたそう思わないはずはない。自分の身に引き当てて考えなければならない。だから、ただただ自分も他人も共に救われることを願い、恨みの心なく、親しい者も、親しくない者も共に一緒に救われることを思ってほしい。

 

このように言い終わって、聖人の父は命終わったということです。

法然聖人は父の遺言に従い、その後間もなく菩提寺(ぼだいじ)というお寺にいき、叔父である観覚(かんがく)という僧侶(そうりょ:お坊さん)のお弟子になられました。

しかし観覚は法然聖人の優れた才能を見抜かれて、それを存分に発揮できるよう、徳の高い僧侶や、学問の深い僧侶がおられる比叡山(ひえいざん)へ聖人を送ることにしました。それは、聖人が13歳の時でした。

法然聖人は比叡山で、めきめきと学問や修行に励まれました。

しかし、実はこの時代の比叡山は、地位や権力を奪い合っているような俗世間(ぞくせけん:一般社会)とかわらない有り様でした。

そこで聖人は、世間的な栄達や出世の道を捨てて、父の遺言を堅く守られ、本当に自分が救われ、また他者も救われる、仏と成るための道を求めて、比叡山の中でも、黒谷別所(くろだにべっしょ)というところへ移られました。黒谷は、名誉や地位を捨てて、真剣に道を求める人たちの集まるところでした。そのような環境の中で、法然聖人はより一層、学問や修行に励まれるのでした。

また聖人は、比叡山の中だけではなく、奈良の興福寺(こうふくじ)や東大寺(とうだいじ)などの学者にも会われ、その教えを聞き、道を求められました。

しかし、それでも法然聖人の期待しておられたものは得られませんでした。

そして再び黒谷に戻り、学問や修行を励み続けられました。

法然聖人は日本に伝来したすべてのお経を、あますところなく何度も読破されていきました。人々はそのような聖人を、「智恵第一(ちえだいいち)の法然房(ほうねんぼう)」と賞賛したといわれています。

そして月日は流れ、法然聖人43歳の時。いつものように黒谷にある膨大な量のお経を読みふけっておられた聖人は、善導大師(ぜんどうだいし)が著された『観経疏(かんぎょうしょ)』という書物の中の、(善導大師については、2011/06/08「善導大師、日没の無常偈」という日記の中で紹介していますので、よかったら参照してみてください。)

milleface.hatenablog.com

 

(書き下し文)

一心にもっぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に時節(じせつ)の久近(くごん)を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。

(訳)

ただひとすじに阿弥陀さまの名号(みょうごう:名前)である「南無阿弥陀仏」を称えて、いついかなるときも、また称える時間の長い短いを問わずに、阿弥陀さまのおはたらきのままに、ただただ称えさせていただく。これを、正しくすべてのものが阿弥陀さまの浄土へ往生することが決定する行(ぎょう:おこない)と名づける。それは、阿弥陀さまの本願(第十八願)にしたがっているからである。

 

(「本願」については、2011/06/29「阿弥陀という仏さま2」の中でふれていますので、よかったら参照してみてください。) 

milleface.hatenablog.com

 

という文に出遇われました。ここに初めて、法然聖人は求め続けてきた道を見出され、念仏往生の教えに帰依(きえ:服従し、すがること)されたのでした。

その時の法然聖人の有様は、『和語灯録』という書物の中で、次のように伝えられています。

(取意)

人の心は移りやすいもの。まるで猿が木の枝から枝に移りかわるように少し もじっとしていることはない。本当に心は散乱して動きやすく、一つ所に静かに止まることはない。このような心でどうして仏となることができるだろうか。あぁ悲しい。一体、どうすればいいのか。私のような者には、仏教の戒律(かいりつ)も修行も智慧(ちえ)も、到底およばない。この仏教のほかに、私にふさわしい教えはないのだろうかと、すべての智者に尋ね、たくさんの学者のもとを訪れたけれども、教える人もなく、示す人もなかった。そんなわけで、なげきなげき、経蔵(きょうぞう:お経が収められている蔵)に入り、悲しみ悲しみお経に向かい、手に取って開いて見ていたところ、善導大師のあの文が目に入ってきました。そして確信しました。私らのような無智の者は、ただただこの文を仰ぎ、もっぱらこの阿弥陀さまの本願をたのみにして、「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えさせていただき、阿弥陀さまの浄土へ往生させていただくべきです。このことは、ただ善導大師の教えを信じるだけではなく、あつく阿弥陀さまの本願にしたがっているのです。善導大師のお言葉が深く魂に染み、心に止まりました。

 

しかし、善導大師の念仏一つによって阿弥陀さまの浄土へ往生することを得 るという教えは、比叡山に伝えられている様々な教えや修行をすべて捨て去ることでもありました。その教えに帰依された法然聖人は、もう黒谷に留まることはできませんでした。

そして、法然聖人は黒谷の地を発たれ、比叡山を降りられるのでした。

 

さて、今回はここまでにして、続きは次回に回したいと思います。

 

☆☆参考文献☆☆