25歳の僕の歩み

このブログは、私が25歳の時にmixiに書いた日記を改めて読み返し、多少加筆訂正したものです。ご一読頂ければ幸いです。 南無阿弥陀仏

法然聖人のご生涯2 -法の弘通-

2011, 8, 1

今回は「法然聖人のご生涯2」ということで、前回の日記の続きを書いていこうと思います。

 

それでは早速、始めます。

法然聖人は43歳の時(1175年)、善導大師のお言葉により、念仏の教えに目覚め、ついにご自身が求め続けておられた道に出遇われたのでした。そして比叡山を下りられ、吉水(よしみず:京都市東山区)というところに移られ、みずからの宗教的立場とする教えを「浄土宗」と名づけて、念仏の教えを広めていかれました。

その教えは、ただひとすじに阿弥陀さまをたよりとして念仏すれば、阿弥陀さまのお力(他力)によって、必ず浄土へ往生できるというものでした。

(ここでいう「念仏」とは、「南無阿弥陀仏」と口に称えることです。また、「南無阿弥陀仏」については、2011/07/01「阿弥陀という仏さま3」の日記でふれていますので、よかったら参照してみてください。)

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(また、「他力」については、2011/07/19「自力と他力」の日記で詳しくふれていますので、よかったら参照してみてください。)

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しかも、貪欲(とんよく:欲の心)、瞋恚(しんに:怒りの心)、愚痴(ぐち:愚かな心)などの煩悩(ぼんのう:身心を煩わせ、悩ませる精神作用の総称)を断ち切れなくとも、煩悩があるままに、お念仏を申したらよい。

また、お念仏を称えている時に心が乱れたとしても、乱れた心のままに、お念仏を申したらよいというものでした。(「貪欲」、「瞋恚」、「愚痴(邪見)」については、2011/05/26「仏教の罪悪観」の日記で詳しくふれていますので、よかったら参照してみてください。)

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そして、身分の高い者も低い者も、男も女も、みな平等に別け隔てなく浄土へ往生できると説かれました。

その理由は、前回の日記の中でも紹介した、「かの仏の願に順ずるがゆゑなり。」という善導大師(ぜんどうだいし)のお示しをよりどころとされ、口で称える念仏こそが、阿弥陀さまの本願にしたがっている行(ぎょう:おこない)であるということを、教えの根本に据えられています。

そして、このような法然聖人の教えは、僧侶や貴族、武士の間だけではなく、身分を越えて、農民などの地位の低かった人々の間にも、どんどん広まっていきました。

 

また、法然聖人54歳の時(1186年)、京都の大原(おおはら)の地で、
「大原談義(おおはらだんぎ)」と呼ばれる仏教教義(きょうぎ:教え)の問答が行われました。

この問答は、天台宗三論宗法相宗などのいろいろな仏教の宗派から当時の高僧方が集まられ開かれたのですが、その中で法然聖人は、集まられた諸師方をことごとく論破され、念仏の教えこそが、今の時代と人の素質に応じた時機相応(じきそうおう)の教えであることを証明されました。(ちなみに、「大原」は中国から天台聲明(てんだいしょうみょう)が伝わってきた場所でもあります。僕が習った「聲明」もこの天台聲明の流れをくんだものです。「聲明」については、2011/05/07「聲明と合唱」の日記の中でふれていますので、よかったら参照してみてください。)

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また、『平家物語』「敦盛最後」の段に出てくる勇猛な武士、熊谷直実(くまがいなおざね)や、比叡山で20年の修行の末に、自らが仏となる道を見出すことのできなかった親鸞聖人(しんらんしょうにん)も、法然聖人の元を訪ねられ、念仏の教えに帰依してゆかれました。

 

そして、当時の関白(かんぱく:天皇の代わりに政治を行う職)であり、法然聖人の念仏の教えに深く帰依されていた九条兼実(くじょうかねざね)という方の願いに応じて、聖人は『選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)』という書物を作られました。この書物は、その書名にあるように、本願にかなう行である念仏一つを選択するというものです。

しかし、前回の日記の最後でも少しふれたように、法然聖人の帰依された教え(浄土門)は、念仏以外の様々な教えや修行をすべて捨て去るものでもありました。それゆえ、この書物は他の宗派(聖道門)から猛反発を受けることを、聖人自身、深く見ぬいておられました。

(「浄土門」「聖道門」については、2011/06/15「どうして仏教にはいろんな宗派があるのか?」の日記の中で説明していますので、よかったら参照してみてください。)

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そこで、この書物の終わりに、

(書き下し文)
庶幾はくは一たび高覧を経て後に、壁の底に埋みて、窓の前に遺すことなかれ。おそらくは破法の人をして、悪道に堕せしめざらんがためなり。

(訳)

この書物は、どうか一度ご覧になった後には、壁の底に埋めて、決して窓の前に出しておくようなことはしないでください。おそらく正しい理解のない人に読まれることがあれば、 仏法を破壊して、悪道に堕するようなことになるでしょう。それをふせぐために、このようなことを申しあげました。

と書かれ、他人に見せることを禁じた非公開の書であることを述べられています。

しかし、法然聖人の念仏の教えが広まると共に、聖道門の宗派との間に摩擦が起こるようになり、それは次第に激しくなってゆきました。

 

また、住蓮(じゅうれん)と安楽(あんらく)というとても声のきれいなお弟子がおられました。そのお二人が唱える美しいお経に感化され、二人の女性が結縁(けちえん:仏道に入る縁を結ぶこと)し、出家するという出来事が起こりました。

(ちなみに、このとき住蓮・安楽が唱えていたのが、善導大師の『往生礼讃』だったと伝えられています。『往生礼讃』については、2011/06/08「善導大師、日没の無常偈」の日記の中でふれているので、よかったら参照してみてください。)

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しかし、実はこの二人の女性は松虫・鈴虫といって、 後鳥羽上皇に寵愛されていた女官であったため、上皇からの怒りをかうことになり、聖道門からの激化する摩擦とも重なって、承元の法難(じょうげんのほうなん)をまねいてしまいます。この法難により、住蓮・安楽を含む法然聖人のお弟子4人が死罪となり、法然聖人ご自身も土佐へ流罪(るざい)となります。時に聖人、75歳(1207年)のことでした。

 

しかし、流罪の命令が法然聖人のもとに伝えられた時、居合わせたお弟子方に次のように話されたと、『法然上人行状絵図』には述べられています。

(取意)

私は流罪になったことを決して恨んではいません。それどころか、念仏をひろめることは京都では長年のことでしたが、地方に出向いて、田舎の人々に念仏を勧めることは、前々から希望していたことです。しかしその機会がなかったのでできませんでした。今その縁ができて、これまでの願いをはたすことができるのです。これは大変な朝廷のご恩というべきです。念仏の教えがひろまることは、人が止めようとしてもそれは決して止まるはずはありません。

聖人はこのように話して、土佐に向かわれました。その道中、魚貝の命を断つことを罪と感じ、法然聖人の元へ救いを求めてきた漁師たちや、同じように自身の行いに罪を感じ、救いを求めてきた遊女たちにも、念仏の教えを勧められたと伝えられています。

 

そして4年後、聖人79歳の時(1211年)に流罪の刑が解かれ、京都へと戻られます。

しかし翌年(1212年)の1月2日より、法然聖人は死の床につかれました。聖人ご自身もお弟子方も往生の近いことを感じておられました。

そして、聖人の老衰も次第に深まってきた1月23日、長らく聖人に仕えてきた源智(げんち)というお弟子が、聖人に念仏の教えの肝要についての一筆を、請い求められました。その願いに応じて、聖人は念仏の肝要を一紙に記されました。これは「一枚起請文(いちまいきしょうもん)」と呼ばれ、法然聖人の絶筆(ぜっぴつ)となりました。そこには、このように書かれています。

(原文)

もろこし(中国)・わが朝(日本)に、もろもろの智者達の沙汰(さた)しまうさるる観念の念にもあらず。また、学文をして念の心を悟りて申す念仏にもあらず。ただ往生極楽(浄土)のためには南無阿弥陀仏と申して、疑いなく往生するぞと思ひとりて申すほかには別の子細(しさい)候はず。

ただし三心・四修と申すことの候ふは、みな決定(けつじょう)して南無阿 弥陀仏にて往生するぞと思ふうちに籠り候ふなり。このほかにおくふかきことを存ぜば、二尊(にそん:お釈迦さまと阿弥陀さま)のあはれみにはづれ、本願にもれ候ふべし。

念仏を信ぜん人は、たとひ一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍 (ぐどん)の身になして、尼(あま)入道(にゅうどう)の無智のともがらにおなじくして、智者のふるまひをせずして、ただ一向に念仏すべし。

為証以両手印(証のために両手印をもってす)

浄土宗の安心・起行、この一紙に至極せり。源空法然聖人)が所存、この ほかにまつたく別義を存ぜず。滅後の邪義をふせがんために、所存を記しをはりぬ。

 

(訳)

私が説いてきたお念仏の教えは、中国や日本の様々な智者達の論議の中でいわれているような、心ろ静かにして仏さまの相(すがた)を観ようとしたり、仏さまの功徳などを思い念じることではありません。また、学問をしてお経の文字について学び念仏の功徳や意味を詳しく知ってからでないと称えられないような念仏でもありません。私が説いてきた念仏の教えは、浄土に往生するためには、 ただ「南無阿弥陀仏」と念仏を称えて、疑いなく往生するぞと思い定めることです。このほかに、別のことがあるわけではありません。

また、本願の中で説かれている真の心(三心)や、浄土往生を願うための修 行(四修)などは、南無阿弥陀仏で往生するぞという思い定める中に、すべて満たされています。このことのほかに、私が何か奥深いことを知っているとお考えであるのならば、お釈迦さまと阿弥陀さまの大悲のお心からはずれ、本願のお救いからも、もれてしまうことになるでしょう。

念仏を信じる人は、たとえお釈迦さまが一生の間に説かれた教えをよくよく 学んだとしても、本当は文字の一つも知らない、無学、無知のような我が身であると深く内省し、在俗生活のまま仏法をお聞かせにあずかっている方々と立場を同じくして、智者のようなふるまいをせずに、ただひたすらに「南無阿弥陀仏」と念仏を称えるべきです。

これは大事な証文ですので、私の両手の印を押しておきます。

私がこれまで勧めてきた浄土宗の教えの「心の置きどころ」と「実践」は、 この一紙に極め尽くされています。私が存じているところは、ここに書いたことのほかに、別のことは全くありません。私がいなくなった後に間違った見解が出てくるのをふせぐために、ここに心中に思うところを記しおわりました。

そして、これを書かれた二日後の1月25日。お念仏の声が次第に途絶えるようになり、その日の正午、法然聖人は往生されました。

 

その往生に際して、空は光り輝き、その光が紫の雲となって辺りにたなびいて、えも言えぬ美しい音楽が響き奏でられ、たとえようもない浄らかな香りが満ちあふれるなどのさまざまな不思議な現象が起こり、阿弥陀さまの来迎(らいこう:阿弥陀さまがお弟子方を引き連れて、その人を迎えに来ること)を受けられたと伝えられています。

 

詳しく申していけば、まだまだ色々なことがあるとは思いますが、以上で法然聖人のご生涯についてはお終いです。

そして、法然聖人がご苦労下さって説かれた念仏の教えは、浄土門の仏教として受け継がれ、今に伝えられてきています。僕に届いてきた浄土真宗の教えも、法然聖人が説かれていた教えを根幹としているものです。

そのことを思いながら、こうして法然聖人のご生涯の一端にふれさせていただくと、僕が今、当たり前のように聞かせていただいている浄土真宗の教えの「背景」というものを観させていただいているように感じています。今僕が聞かせていただいている念仏の教えは、法然という方が、全身全霊、まさに命をかけて求められ、伝え広めてくださった教えです。もちろん、法然聖人以外にも、数え切れないほどの人たちのご苦労を通して今に伝わってきている教えです。

 

だけど、そんな先人のご苦労など知りもしないで、たとえ知っていようとも、いつもはさっぱり忘れ通しで、何もかも当たり前のように感じながら過ごしている「僕」がいます。

しかし、そうではない。本当は当たり前ではない。「僕」の感覚がマヒしているだけで、今の僕の背景には、数え切れないほどの膨大なご苦労が事実としてある。もちろんその中には、家族や友達のご苦労もたくさんあります。

自分自身の感覚ばかりを頼りとするのではなく、そこのところに、少しでも目を向けさせていただくことは、難しいことですが、とても大切なことだと思います。

 

だけど、それ以上に大事なことは、「それらのご苦労は、何のためにあるのか」というところを聞かせていただくことだと、僕は思います。

そこのところを、今回は法然聖人のご生涯を通して、僕自身が聞かせていただきました。

 

さて、二回にわたり長い日記になりましたが、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

南無阿弥陀仏

 

☆☆参考文献☆☆

  • 黒田覚忍、『はじめて学ぶ七高僧 -親鸞聖人と七高僧の教え-』、本願寺出版社、2004年3月16日。
  • 佐山哲郎 脚本、川本コオ 漫画、『マンガ 法然上人伝』、浄土宗、1995年3月1日。
  • 増井悟朗、『『三帖和讃』講讃 上』、白馬社、2010年3月10日。