25歳の僕の歩み

このブログは、私が25歳の時にmixiに書いた日記を改めて読み返し、多少加筆訂正したものです。ご一読頂ければ幸いです。 南無阿弥陀仏

日曜礼拝 -仏さまの話と子ども達の話-

2011, 9, 19

昨日は日曜礼拝の手伝いに行ってきました。そこでの出来事や思ったことを少し書いてみようと思います。

日曜礼拝は子ども達の集まりで、一緒にお勤めをしたり、仏さまの話を聞いて分級をします。もちろん、その後にはおやつとゲームが待ってたりもします。それから、僕が行かせてもらっているところは、大人の方も一緒に参加されているので、一緒にご法話を聞かせていただいた後に、大人は大人で分級をされています。

だけど、今回の日曜礼拝は子どもが3人しかいませんでした。(いつもはだいたい10人前後くらいは来てくれています。)しかも、そのうち一人は初めて来てくれた小学校一年生の女の子でした。大丈夫かなぁと不安に思いながらも、日曜礼拝は始まりました。

 

そして、お勤めが終わってご法話になりました。ご法話は仏さまについてのお話しだったのですが、子ども達はおとなしくはしていますが、下を向いて足をつついていたり、こっちを見て「まだ?」と訪ねてきたり。「あぁ、この子たちにはしんどい時間だったかなぁ」と内心思いつつ、僕もご法話を聞かせてもらいました。

 

そして、ご法話が終わると分級になります。今日は人数が少ないですが、二つのグループに別れました。僕はもう一人の先生と一緒に、低学年の2人の子達のグループを担当させてもらいました。

僕は、さてどうしようかなぁと思いつつ、

「さっきのお話し、どうだった?難しかったかな?」

と聞いてみました。すると、子ども達からは、

「簡単だった」

「ふつう」

という答えが返ってきました。僕は驚きました。というよりも、内心で「ほんとかなぁ」と疑っていました。

だけど、法話の内容を確認していくと、驚くほどよく聞いてくれていたことがわかりました。

法話は「仏さま」についての話だったということで、その仏さまというのは、

・死なない

・やさしい

・いちばんたいせつにおもってくれている人

・いのちをうばわない人

などのことを発表してくれました。

僕は、この子たちは退屈そうにしていて、全然ご法話の内容を聞いてないだろうなぁと勝手に思っていたんですが、それは大きな間違いでした。たとえ聞く気がないようでも、この子達の耳には、ちゃんと届いていたんだなぁということを知らされました。

また次に、「いのち」の話もご法話の中にあったので、この子達と振り返ってみました。僕達が食べものとして食べているものは、すべて「いのち」があったもの。牛や豚や鳥や魚、それから野菜だってそう。それらの「いのち」をうばって食べている。

それじゃあ、もし自分が食べられる立場になったらどうか。どんな気持ちがするだろうか。

そんなことを子ども達と話し合いながら、最後に、ご法話の中にあった、「仏さま」は僕たちを、人間だけじゃなくて、すべてのものを、自分と同じ「仏さま」にしてあげたいと願っておられるんだよという話をしました。

 

さてさて、そして分級の後はおやつを食べました。今日は人数が少ないので、いつもよりも豪華になりました(笑)

その後にゲームをしたのですが、これまた人数が少ないので、先生達の独断と偏見で、野球盤をすることになりました(笑)最初は文句をいっていた子も、
いざやってみると案外と興味をもってくいついてきてくれました。

ただ、さすがに20分もすれば飽きてきたみたいで、その後はお絵かきやらおんぶやらしながら、ワイワイと遊んでいました。また、僕はその間に他の先生と野球盤で熱戦をくりひろげたりもしていました(笑

 

さてさて、そんなこんなで日曜礼拝は終わったのですが、今回の事で、あらためて「話を聴く」って大事だなぁと感じました。そして、僕自身は相手の事を「ああだ、こうだ」決め込んでいるけれど、それって本当に不確かなものなんだなぁということを思わされました。だからこそ、「自分自身で思い描いている相手」ではなく、「相手自身の気持ち」を大切にしていけたらと、あらためて思いました。

また、こうして子ども達の話を聴かせてもらいながら、仏さまの話をさせていただけるのは、不思議なことだし、うれしいことだなぁと思いました。