華光 仏の子供大会 三日目
2011, 9, 1
さて、前回に引き続き「華光 仏の子供大会」についての日記です。今日はイベント盛りだくさんの三日目です。
昨日と同じように、朝はラジオ体操から始まります。体操を終えると、朝のお勤めをします。(二日目の日記では、ラジオ体操の後に朝食と書きましたが、プリントで確認してみたら朝食はご法話の後でした。)
三日目のお勤めは「讃仏偈(さんぶつげ)」です。(「讃仏偈」は2011/05/03「お寺に生まれたこと」や2011/06/27「阿弥陀という仏さま1」の日記の中に登場してきますので、よかったら参照してみてください。)
そして、ご法話です。今日の法話は僕が担当させてもらったので、原稿のデータがあります。なので、少し長くなりますが、それをここに載せさせてもらおうと思います。
おはようございます。これからご法話をさせていただく毛利といいます。足は楽にしてもらって構わないので、これからのお話しをしっかりと聞いてください。
では早速、みんなに質問します。みんなは今までに、お友達やお父さん、お母さんにこんな話をしたことがありませんか?
「ねぇねぇ、明日どうする?何して遊ぶ?」
「ねぇねぇ、明日の授業ってなんだっけ?」
「あ~あ、早く夏休みになんないかなぁ」
「よっしゃ!夏休みになった!よーし、夏休み何して遊ぼっかな~♪」
どうですか?
(何人かに夏休みの予定などを聞いてみる。)
それじゃあ、こんな話はしたことがありますか?
「ねぇねぇ、もしかしたらこの夏休みの間に死ぬかもしれないんだけど、どうする?」
どうですか?
(何人かに聞いてみる。)
しませんね。せっかく楽しい夏休みがやってきたのに、こんな話をすることは、まずないと思います。だけど、実は仏さまの話をするということは、この、
「もしかしたら夏休みの間に死ぬかもしれない」
もっと突き詰めて言うと、
「もしかしたら、明日、いや、もしかしたら今日、死んでしまうかもしれない」
というお話をするということなんです。
さてみなさん、今年の子ども大会のテーマはなんでしたか?
(誰かに答えてもらう。)
そうですね。「心の勉強」です。
(「心の勉強」と板書)
そして、今日のご法話で勉強することは、これです。
(「無常」と板書)
この漢字、何て読むか分かりますか?
(誰かに答えてもらう。)
そうですね。「むじょう」と読みます。
(「むじょう」と振り仮名を板書)
今日は、この「無常」ということを通して、「心の勉強」をしていきたいと思います。
さて、では「無常」とは一体どういう意味でしょうか?
(何人かに聞いてみる。)
うん、ありがとう。「無常」ということは、「常では無い」ということ。「常」とは「いっつも」とか、「いつまでも」という意味です。それが「無い」。つまり、「いっつもじゃ無い」「いつまでもじゃ無い」ということです。
僕たちは今、人間として生きているけど、その「生きている」ということが「いつまでもでは無い」ということ。つまり、生きている以上、ずっと生きているわけでは無くて、いつかは必ず死んでいかなければならないということです。
生きているんだから、死んでいかなければならない。これって、誰でも知ってる当たり前のことだよね。
それじゃあこのことを、普段みんなは考えていますか?もしくは、学校の授業で
「みんな必ず死ぬんだよ」
と教えてもらったりしますか?
(何人かに聞いてみる。)
そうですね。普段、考えることでもないし、学校で教えてもらうことでもありません。
だけど、この「死ぬ」、つまり「無常」というのは本当のことです。そして、僕たちが普段考えていなくっても、仏さまはこの「無常」ということをよーく知っておられます。そして、みんな独り独りに、
「あなたが生きているこの世界は、無常の世界だよ!とっても苦しくて、いつ死ぬか分からない危ない世界だよ!」
と叫んでおられます。
さて、それじゃあここで、少し、僕のおばあちゃんの話をしてみたいと思います。これは、僕が小学校3年生の時のお話です。
僕はその頃、学校の宿題をするのが大嫌いでした。みんなはどうかな?だから、いつも宿題は適当に片づけて、遊んでいました。
だけど、そんな僕をおばあちゃんは晩御飯が終わった後にいっつも捕まえて、
「宿題をみせてごらん。」
と言います。そして宿題をみせると、
「ここは違うよ。ここも違うよ。」
と宿題をチェックしてくれていました。特に国語は、きちんと全問正解するまで、ずっとつきっきりで教えてくれていました。正直なところ、これは僕にとってめんどくさいことでした。
だけど、学校に行って宿題を出すと、僕はいつも、全問正解しているので、国語の時間によく先生にほめてもらいました。そのことは、とても嬉しかったので、文句を言いながらも、毎日おばあちゃんに宿題をみてもらっていました。
それから、僕はおばあちゃんがつくる「うどん」が大好きでした。熱いスープにやわらかい麺、そして黄身がとろとろの卵がのっかったうどん。おばあちゃんは、「たまさんうどん」と言っていました。僕はよくおばあちゃんに頼んで、大好きな「たまさんうどん」を作ってもらいました。
僕のおばあちゃんは、そんなふうに面倒見がよくって、とってもやさしい人でした。
そして、その年のお正月。僕はお父さんとお母さんと妹と一緒に、お母さんの実家に3日間行きました。僕は従兄のダイちゃんと一緒にテレビゲームをして遊ぶのが大好きだったので、とても楽しい3日間でした。
そしてまた、みんなで家に帰ってきました。すると突然、僕と妹は近所の家に預けられることになりました。いきなりのことだったけれど、僕はその家のおばあちゃんもおじいちゃんも好きだったので、平気でした。
そして、ずいぶんと時間が経って、もう辺りが真っ暗になってきたころに、お父さんとお母さんが迎えに来てくれました。
そして家に着くと、大事な話があると言って、僕と妹を畳の上に座らせました。そして、おばあちゃんが亡くなったことを教えてくれました。今はもう、その時に僕のお父さんとお母さんがどんなことをしゃべったのかは覚えていませんが、僕はそれを聞いて涙を流しました。でも、悲しい気持ちや苦しい気持ちは、その時は全くありませんでした。だから、僕は自分が涙を流しているのがとても不思議でした。その不思議な感じだけは、今もよく覚えています。
僕はその夜、寝るときになって、ようやく悲しくなってきました。そして、ふと思いました。
「僕は子どもだから、お父さんやお母さんも僕より先に死ぬことになるのか。お父さんやお母さんが死ぬのか。」
お父さんが死ぬことも、お母さんが死ぬことも、うまく想像することはできなかったけれど、それがあるんだということは、このときはっきりと感じました。僕は、そのことを考えると、とても怖くなりました。これから先、生きていくと、お父さんの死も、お母さんの死もやってくるのか。そのことを思うと、この先、ずっと生きていくことがとても怖くなりました。
そして次の日。おばあちゃんの遺体が病院から帰ってきました。僕は亡くなったおばあちゃんと対面しました。そこには、いつものおばあちゃんがいました。ただ、鼻や耳に、何か綿のようなものが詰められていました。お母さんにその事を聞くと、
「死んだ人は力が抜けて体液が出てくるから、ああして詰め物をするんだよ。」
と教えてくれました。だけど、僕にとって、それはとても不思議なことでした。確かに、手や顔を触ると冷たいんだけど、見た目はいつものおばあちゃんです。
「おばあちゃんは、ほんとに死んでいるんだろうか?」
僕にはそんな疑問がわいていました。おばあちゃんの姿は、僕には、いつものようにただ眠っているようにしか見えませんでした。
そして、僕はそのことを確かめてしまいます。僕は、家族のみんなが他の部屋に行っている時、こっそりおばあちゃんのところへ一人でやってきました。そして、おばあちゃんの生きている時と変わらないようなきれいな顔を覗き込んで、おばあちゃんの閉じられた瞼を指で開きました。そして、おばあちゃんの目を見ました。
それを目を見た瞬間、僕は驚いて後ろに飛びのきました。その目は、死んだ人の目でした。そのことは、おばあちゃんの目を見た瞬間に、はっきりと分かりました。そしてそれだけじゃなく、僕はおばあちゃんのことを恐いと感じました。
僕はようやく、おばあちゃんが死んでいることが本当に分かりました。
僕とおばあちゃんの話は、これでお終いです。
そして、今僕が仏さまの話を聞かせていただいて思うのは、おばあちゃんは僕に、本当のことを教えてくれたということです。おばあちゃんは僕に、
「人間は本当に死ぬ」
ということを、その身を持って教えてくれました。おばあちゃんは僕に、
「仏さまのおっしゃられていることは本当だよ」
ということを教えてくれました。
「無常ということは本当だよ」
と教えてくれました。
でもね、無常ということはそれだけじゃありません。人間が「死ぬ」ということは、いつ訪れるか分かりません。誰が、いつ、どこで、どうやって死ぬか分からない。それは、いつ死んでもおかしくないということです。
じゃあ、みんなはどうですか?みんなにはそのことが分かりますか?「無常」ということが、本当に分かりますか?
僕はぜひ、みんなにそのことを考えてもらいたい。そして、そのことを考えることができるのは、人間だけです。人間だけが、無常を考えることができる。人間だけが、心の勉強をすることができる。
仏さまは、
「みんないつ死ぬか分からないよ!危ないよ!この世界は無常だよ!だから、どうか私の話を真剣に聞いて、早く仏の子供になっておくれ!」
と叫ばれています。
じゃあ、みんなは?僕の話を聞いても、
「いつ死ぬか分からない」
なんてそんなこと思えないかもしれない。
「ひょっとしたら今、死ぬかもしれない」
なんてそんなこと全然感じられないかもしれない。
だけど、「無常」を感じることはできなくても、考えることはできる。無常というのは本当のこと。そのことにしっかりと目を向けて、自分の心で真剣に考えてほしい。
僕の話は、これで終わります。ありがとうございました。
(おわり)
ご法話の後は、朝食を食べて、班評価、班会議、お勤めの作法がありました。
そして、三日目の分級に入ります。二日目と同じようにしばらく雑談をしていたんですが、ふと思いついて、みんなで「南無阿弥陀仏」を黒板に書いてみることにしました。この分級にいる子供は7人。なので、「南無阿弥陀仏」の一文字ずつと、アメリカから来てくれた子は平仮名は書けるということだったので、「なもあみだぶつ」という振り仮名を書いてもらうことにしました。
今まで何度も見たことがある六字ですが、いざ書いてみようとなると、なかなか出てこないようで、特に「弥」とか「陀」のあたりは、だいぶ苦戦していました。ただ、中には「仏」の旧漢字「佛」を知っている子もいて、驚かされました。そんな子供たちの姿は、見ていてとても微笑ましかったです。
さて、そして完成した「南無阿弥陀仏」に向かってみんなでお念仏を称えて、分級の中身に入っていきます。
まずは二日目と同じようにご法話の内容を確認するため、一人ひとり覚えていることを発表していってもらいました。「南無阿弥陀仏」は黒板の真ん中に書いていたので、その両サイドにみんなの発言を板書していきます。
その中で、僕のおばあちゃんの話のことをよく覚えてくれているようだったので、今までに周りの人の死に出会ったことがあるかどうか、聞いてみました。すると、3人の子が手を挙げてくれたので、言葉にできる範囲で、その時のことを話してもらいました。
そして次に、ご法話の最後の方で少し話したこと、「仏法は人間しか聞けない」ということについて、『こどもの聖典』を開いてみていくことにしました。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道の世界が書かれているページを開き、その一つ一つの世界をみながら、なぜ仏法が他の世界では聞けないのか、みんなの意見を聞きながら、一緒に確認していきました。(このことについては、2011/05/11「三世と六道」と2011/05/17「人間に生まれた意味」という日記の中で詳しくふれているので、よかったら参照してみてください。)
さて、そして改めて無常の話に戻ります。無常というのは本当のこと。その例として、東日本大震災の話や戦争の話を子供達としました。
無常というのは本当のこと。僕たちは、必ず死ななければならない。そして、「死」はたった独り。たった独りでこの世から出ていかなければなりません。どんなに仲のいい友達も、家族も、一緒についてきてはくれません。たった独りで出ていかなければなりません。
そして、子供達に聞いてみました。
「みんな、死んだらどうなると思いますか?」
一人ひとりの正直な今の思いをゆっくりと聞いてみると、みんな、
「地獄に行くと思う」
と答えました。
この答えは、実は僕にとっては意外なものでした。だけど、みんなはこれまでの話をちゃんと考えながら聞いてくれていたんだなぁと思わされました。
だからこそ、改めて聞いてみました。
「みんな、本当に地獄に行くと思っていますか?」
仏法は、わけもわからんことを頭ごなしに覚えていくような教えではありません。しっかりと、自分自身を素直に観ていく必要があります。
すると、一人の子が、
「悪いことしてるから地獄に行きそうな気もするけど、誰も見たことがないんだし、地獄があるかどうかわからない。」
と答えてくれました。また別の子達もゆっくりと発言をしてくれました。
「死について考えるのは悲しい。怖い。」
「もし本当に地獄があるのなら、怖い。行きたくない。」
「もしいつ死ぬのかが分かるんなら、それまでに仏の子供になりたい。」
この子たちは今、この子たちなりのところで、「無常」に向き合ってくれている。そのことが、ひしひしと伝わってくるようでした。
ここで、少し休憩を入れることにしました。みんなそれぞれお菓子を持ってきたり、おしゃべりをしたりしています。その中で、ある子が、アメリカから来てくれた子からもらったクッキーを持ってきてくれました。そのクッキーはアメリカの友達と一緒に作ったもののようで、プレーンやチョコ、それに抹茶味もあり、形もプーさんなどとてもかわいらしく、きれいにできていました。そのクッキーを分級のみんなでワイワイおしゃべりしながらいただきました。
また、休憩中に、ある子に分級の感想を聞いてみました。そうしたら、
「怖かった。だって先生、死ぬこことか怖い話するんだもん。」
とその時は休憩中の和やかな雰囲気の中で笑いながら答えてくれました。僕はその言葉を聞いて改めて、本当にそうだなぁと思いました。そして、あぁ、ちゃんと僕の話を聞いてくれているんだなぁと思いました。
さて、そして再び分級に戻ります。仏の子供大会では、仏さまの話を聞かせていただくんですが、それには二つの心を聞いていく必要があります。一つ目は「私の心」。実は、いままではこの「私の心」のお話でした。仏さまから見た私の心について、罪悪や無常ということを通して観てきました。そして、みんなは本当に、それらのことを真剣に考えてくれているようでした。
なので、これかもう一つの心について、お話ししていきたいと思います。もう一つの心とは、「仏さまの心」です。仏さまの話を聞くということは、「私の心」と「仏さまの心」、この二つを聞くということなんです。そして、仏さまの心の話。それは、最初にみんなで書いた、この「南無阿弥陀仏」のお話です。
実は、この南無阿弥陀仏という漢字自体には、意味がないんです。別に「南に無い」というわけでもありませんし、「阿弥陀」という漢字自体にも意味はありません。
これは元々、インドの言葉だったんです。「南無」というのは、インドの「ナマス」という言葉で、「ナマス」と発音の似た漢字を当てはめて「南無」としたんです。ちなみに、意味を訳したら、「帰命(きみょう)」という言葉になります。このように、仏教の漢字の言葉には、インドの言葉の音をそのまま漢字にしたものと、言葉の意味を考えて漢字にしたものとがあるんです。
そして、「ナマス」とは信じる、おまかせする、よりどころとする(無上帰依処)、あてたよりとする、といったような意味があります。つまり、南無阿弥陀仏には、「阿弥陀という仏さまを信じ、よりどころにします」という意味があるんです。
さて、今から約2,500年前のインドにお釈迦さまがお生まれになりました。そしてお釈迦さまはご修行をされて仏さまに成られ、多くの人々に教えを説いていかれました。その教えが仏教です。
その教えを聞かれたインドの方々が中国へと伝えて下さり、そこで教えをインドの言葉から中国の言葉へ翻訳して下さいました。それはもう、とてつもなく大変なことだったと思います。
そして、中国から日本へと伝わり、日本でも、僕達が生きている今の時代までずっと伝わってきた教え。それが仏さまの教え、仏教です。
このあたりまで話した時、ちょうどいい時間になっていたので、今日の分級はここで終わっておきました。
そして、午後からは追跡ハイキングです。追跡ハイキングとは、道や壁などにつけられた「→」や「×」などの印を探しながら、目的地を探していくハイキングのことです。また、途中でチェックポイントもあり、そこでクイズが出されたりします。ゴールまでのタイム、印を見つけた数、クイズの正解率などを総合して、班対向で得点を競い合います。
僕は昨年と一昨年の子供大会では、班付きの先生として子供達と一緒に周っていたんですが、今年は初めて、チェックポイントのスタッフの一人として参加させてもらいました。なので、みんなよりも一足先に昼食を食べさせてもらって、同じ追ハイ係の先生達と一緒に印をつけに出発しました。(この時の昼食は、タコ飯と昨日のバーベキューの残りを焼きそばやチンジャオロースーなどにして下さったもので、ものすごく美味しかったです。バーベキューの残り物をこんなに美味しくしてくださった海ぼうずのスタッフの方々には、驚かされました。)
日差しが強く、とても暑い日でしたが、子供達はどれだけ見つけられるかなぁと想像してウキウキしながら、同じチェックポイント役の先生方とチョークでいろんなところに印をつけていきました。
また、僕のチェックポイントではクイズに加えて、班の「モットー」と「うた」を発表してもらいました。大きな声でとは言いましたが、どの班の子達もビックリするくらいの声で、「モットー」と「うた」を力いっぱい叫んでくれました。その光景が、二日目の夜の時とは大違いだったので、僕は本当に驚かされました。昨日はあんなに恥ずかしそうにしていた子も、何かふっきれたように、大声で叫んでいました。外の開放的な雰囲気って、本当にすごいんだなぁとつくづく思わされました。
また、ゴール地点では、班員の一人が熱中症で倒れたときにどうするかという即興劇をやってもらいました。中には、
「だれかーっ!!」
と叫ぶ子や、本当に自分のタオルを濡らしてきて処置をするような子もいました。
さて、楽しかった追跡ハイキングが終わった後は、急いで帰って班会議。夜のキャンプファイヤーのスタンツに向けて、各班ごとに小道具を作ったり、練習をしたりと、時間ぎりぎりまでがんばっていました。
そして、夕食を食べて、いよいよキャンプファイヤーへ。キャンプファイヤーは二日目に泳いだところのすぐ近くの浜辺でやりました。
歌やゲームを交えながら、いよいよ各班のスタンツが始まりました。全員参加型のクイズをする班、マリオと仏さまの劇をする班、アンパンマンとAKBの劇をする班、ナンパ男とまじめな男が女の子をめぐってダンスバトルを繰り広げる班。子供達の発想力とパワーに驚かされましたし、何よりとっても楽しませてもらいました。
そして、楽しかったキャンプファイヤーも終わり、帰ってきたら気持ちを落ち着けるための簡単なゲームをして、連絡事項などを簡単に済ませて、子供達は就寝。
この後、大人たちは反省会へ。今日一日の反省と、最終日の役割の打ちあわせをして、各班のアピールタイムに入ります。三日目ということで各班の中にもだいぶ結束力が高まってきており、加えて今日は追ハイにスタンツに、大きなイベントが二つもあったので、評価してあげたいポイントはたくさん出てきました。僕自身も、子供達のいきいきとした姿を今日一日だけでたくさん見させてもらったので、できるだけ、それらをすべて包括できるような評価がしたいと思っていました。なので、その分この日の班評価は、いつにもまして難しいものとなりました。
結局、反省会の後、一人残ってやっていると、またベテランの先生が一人、助けに来て下さり、お陰でなんとかまとめることが出来ました。この日は法話や追ハイやキャンプファイヤーの準備もあり、体力的にも精神的にもかなり疲れていたので、本当に助かりました。
さて、そしていよいよ明日は子供大会の最終日。その事を心に刻みながら、眠りに就くことにしました。
つづく