25歳の僕の歩み

このブログは、私が25歳の時にmixiに書いた日記を改めて読み返し、多少加筆訂正したものです。ご一読頂ければ幸いです。 南無阿弥陀仏

話し手中心のカウンセリング3 -話し手の言葉と感情、そして聴き手の態度-

2011, 9, 26

久々のカウンセリングについての日記です。日記を書くペースが極端にゆるやかになってきましたが、まぁ書きたい時に書けばいいのかなぁと思いつつ、のんびり書いていきたいと思います。

 

さてさて、今回は先日の真宗カウンセリング研究会の月例会でのことを振り返りながら、そのことを通して感じたところを書いてみたいと思います。(月例会では、C. ロジャーズという人の論文をゆっくり輪読していっています。ちなみに、2011/07/23「話し手中心のカウンセリング2 -そのままの自分でいられる場所-」という日記も月例会での話題ですので、よかったらみてみてください。)

  

 

 

今回読んだところは、「積極的な聴き手になること」という章でした。その章の中で、それでは実際にはどうしたらよいのかということで、ロジャーズはまず、その根本的なところを次のように述べています。

「わたくしはあなたのいっていることをあなたの立場で聴いています」というきもちを相手に伝えることなのです。

これは、私の中にわき起こっている思いを少し横に置いておいて、私の立場 ではなく、相手の立場に立って、相手が何を伝えたいのかを聴くという聞き方です。そして、そのような私の態度や気持ちが相手に伝わる。それが積極的な聴き手になるということなんだと、ここでは述べられていると思います。

そして、その聴き方について、少し詳しく説明されていきます。まず、誰かが物をいう場合、そこには二つの面があるといいます。それは、

  • 言葉の意味
  • 言葉の意味の底に流れる気持ち

の二つです。話を聴く場合、この両方の意味を理解すべきだと述べられています。そのことを説明するための例として、組長(上司)と機械工(部下)の会話の例が紹介されています。

機械工が組長のところへやってきて、

「旋盤の取り付けをおわりました」

と報告したとします。この言葉にはハッキリした意味があります。組長はおそらく次の仕事をいいつけるでしょう。しかし、仮りにこの機械工が

「あのいやな旋盤の取り付けをやっと終わりました」

といったとしますと、いった言葉は同じ内容の事実を伝えているのですが、全体としては意味は違ってきます。しかもこの意味の違いは組長、機械工のどちらにとっても重大です。こういったときに神経のゆきとどいた聴き方をするかどうかがふたりの関係を左右するものとなります。かりに組長が機械工の報告をあとのような形で聞きながら、しかもたんに次の仕事を割りあてたとしますと、機械工は自分のいいたいことが完全に解ってもらえたと思うでしょうか。こんな組長に考えていることを腹蔵なく話そうという気持ちになるでしょうか。こんな組長のもとで仕事にやり甲斐を感じるでしょうか。さらに与えられた仕事を一生懸命にやろうという気になるでしょうか。

反対に組長が

「やっかいな仕事が終わってやれやれだね」

とか

「あの仕事には参ったらしいな」

というふうに「君のいいたいことは全部聞いた。わかってるぞ」という気持ちをあらわしたら、どうなるでしょう。

…中略…

機械工の報告を聴いて、組長はいろんなことをしなければならなくなるかもしれませんが、必ずしもこうしなければならないということはないのですから、要するにチョット神経を使うことによって、職場の雰囲気が明るいものとなっていくのです。

ここでは、組長と機械工とのやり取りをとおして、日常生活(仕事場)での何気ないやり取りの中で、「言葉の意味」だけではなく、「底に流れる気持ち」まで受け取ることの可能性を示されていると思います。そしてここのところは、僕自身がカウンセリングにひかれている大きなポイントの一つだと思います。言葉の表面だけでなく、その上側にある感情も丁寧に聴いていく。そのような聴き方からわき起こってくる人間関係に、僕は魅力を感じています。

ただ、例会の中では、このような聴き方を実際の仕事場でするのはとても難しいだろいうという話題も出ていました。会社の中で仕事をするということは、個々の気持ちを尊重していくということよりも、効率化の元に、個々の気持ちを律して、どれだけ会社に尽くすことができるのかということの方が、重要視される場合が多いのではないかということでした。

このような話も聞かせてもらいながら、僕自身の中でもいろいろと考えてみました。その中で思ったことは、僕にはまだ社会人として仕事をした経験もありませんので、具体性に欠ける抽象的な考えかもしれませんが、それでも、ロジャーズの言葉の中にある、「チョット神経を使うことによって、職場の雰囲気が明るいものとなっていく」というところを実生活の中でしっかりといかしていきたいという思いが、今は強くあるように感じます。

チョット神経を使う。それは、「言葉の意味の底にある感情」に気がつくことなんだろうと思います。そして、この気づきのための大きなポイントの一つに、「相手に対する謙虚な態度」ということがあると思います。「自分の思い」はひとまず横に置いておいて、「相手の思い」をそのまま聞こうとする態度。それは、「自分の考えが正しい」という思いを少し横に置いておいて、「相手の考えとはどんなものか」ということを純粋に聴いていこうとする態度です。これは、「相手を尊重する態度」とも言い換えることができると思います。このような態度をとることができるかどうかが、大きなポイントの一つだと思います。

だけど、これは難しい。この難しさの理由は、人によっていろいろな考えがあると思いますが、僕としては、僕自身の心の中に「僕が正しい」という思いが頑として居座っている、つまり、「自分が一番」という偉そうな心が、僕の中にドシンといる、これが難しさの一番の理由なんじゃないかと考えています。

このような自分自身の心は、カウンセリングの中での気づきもありましたが、僕の場合は、特に仏教(僕の場合は浄土真宗)を通して観させてもらいました。だけどそれだけじゃなくて、そうやって「偉そうにしている心」こそ、「全く当てにならない、狂いきって迷っている心」だということも、教えていただきました。

もちろん、そこを教えてもらったからといって、僕自身の「偉そうな心」は相変わらずです。どんなに外側で謙虚そうな態度をとっていたとしても、内側、心の奥底ではモゴモゴと蠢いています。

ただ、それらのことを観せてもらい、教えてもらったことが、僕自身の「話しを聴く態度」というところに繋がってきているように思います。僕の心は、「俺が一番」の偉そうな心。だけど、その心は本当は「全く当てにならない心」。そこのところをひとつおさえておくと、自分の心を少し横に置いておくことがやりやすいように今は感じています。(ここのところが、仏教とカウンセリングが協力し合えるポイントの中の一つではないかと、僕は考えています。) (また、「聴き手の態度」に関しては、2011/05/19「話し手中心のカウンセリング1 -優しさと尊敬の態度-」の日記の中でも取り扱っているので、よかったら読んでみてください。)

 

 

さてさて、今回は真宗カウンセリング研究会の月例会でふれた部分を少し紹介しながら、「言葉の意味の底に流れる気持ち」に気づくための一つのポイントとして、「聴き手の態度」というところを、僕なりのところで書いてみました。

また折にふれてのんびりと、僕自身の思いや考えを言葉にしていけたらと思います。

 

☆☆参考論文☆☆

カール・ロジャーズ著、友田不二男編訳、「カウンセリングの立場」第18章 積極的な聴き手になること。