25歳の僕の歩み

このブログは、私が25歳の時にmixiに書いた日記を改めて読み返し、多少加筆訂正したものです。ご一読頂ければ幸いです。 南無阿弥陀仏

 浄土真宗の教え2 -自力と他力-

2011, 7, 19

今回は、浄土真宗の教え、その2ということで、「自力(じりき)」と「他力(たりき)」について、書いてみようと思います。

書いていくんですが、その前に、この日記は、仏教の教えや考え方を読み手の方に押し付けるのが目的ではありません。ただ、僕自身が今喜ばせていただいている仏教、僕の場合は浄土真宗になりますが、そこのところをぜひ紹介したいなぁという思いで書いています。ですので、ご自身のペースで読んでいただければ幸いです。

 

さて、では「自力」と「他力」という言葉ですが、一般的な理解としては、

「自力」は、自分の力

「他力」は、他人の力

というものがほとんどではないかと思います。

しかし、「自力」にしても「他力」にしても、元々は仏教用語です。そして、そのことを踏まえて二つの言葉を考えてみると、そこには、「仏に成る」という方向性がついてきます。どういうことかというと、

「自力」は、自分の力で仏に成る道

「他力」は、自分以外の他の力によって仏に成る道

という二つの道を表す言葉だということです。

 

さて、ではもう少し詳しく、その中身にふれていきたいと思います。

まず、「自力」。先ほども述べたように、「自力」とは、自分の力で仏に成る道です。

そのためには、悪いことをせずに、善いことをする必要がある。例えば、仏教で説かれる悪いことの一つに、十悪(じゅうあく)というのがあります。このような悪いことをせずに、善いことをするのです。(十悪については、2011/05/26「仏教の罪悪観」の日記で詳しくふれていますので、よかったら参照してみてい下さい。)

milleface.hatenablog.com

 

そして、善いことというのは、仏さまの説かれた教えの通りに修行していくことです。それが、仏教の上での善いことです。自分自身で一生懸命修行を積み重ねて、迷いを断ち切った仏さまに成るのが、「自力」の道です。そしてこれは、以前の日記でも紹介した聖道門(しょうどうもん)の道です。(聖道門については、2011/06/15「どうして仏教にはいろんな宗派があるのか?」の日記の中で紹介していますので、よかったら参照してみてください。)

milleface.hatenablog.com

 

では次に、「他力」についてみていきたいと思います。「他力」は、自分以外の他の力によって仏に成る道です。つまり、自分自身で修業をして仏に成る道ではないということです。そして、「他力」の上で最も大切なことは、「他」が何を指す言葉なのかということです。

「他」とは、「阿弥陀仏(あみだぶつ)」という仏さまを指す言葉です。つまり「他力」とは、「阿弥陀さまの力」ということです。

決して、「他の人」を指す言葉ではありません。そこのところで、よく誤解が生じているのが、「他力本願(たりきほんがん)」という言葉です。この言葉は、

「他人まかせ」

「他人の力に頼る」

という意味ではないんです。

また、「本願」とは、阿弥陀さまの四十八の願いの中の根本の願いである「第十八願」のことです。その願いとは、

私が仏になるとき、すべての人々が心から信じて、私の国に生まれたいと願い、わずか十回でも私の名前を称えて、もし生まれることができないようなら、私は決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗る(そしる)ものだけは除かれます。

という願いです。この願いを指して、「本願」というのです。(阿弥陀さまや、その願いについては、2011/06/27~07/01「阿弥陀という仏さま」という三回にわたる日記の中でふれていますので、よかったら参照してみてください。)

milleface.hatenablog.com

 

そして、阿弥陀さまの本願の力で仏さまに成るのが「他力」の道です。これは、浄土門(じょうどもん)の道であり、浄土真宗における仏に成るための道です。

 

浄土真宗の教えでは、以前の日記でも少し紹介した蓮如上人(れんにょしょうにん)というお方が、「領解文(りょうげもん)」という浄土真宗の正しい教えを簡潔にまとめられた文章の中で、このように述べておられます。

もろもろの雑行(ぞうぎょう)雑修(ざっしゅ)自力のこころをふりすてて、一心(いっしん)に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御(おん)たすけ候(そうら)へとたのみまうして候(そうろ)ふ。

雑行とは、聖道門の修行のこと。雑修とは、さまざまな行をまじえて修行すること。

そして、ここで言われる「自力」とは、疑い心のこと。自分の力でなんとかしようという心は、阿弥陀さまの願いを疑う心なんです。

これは、ともすると自分では何もしないという無気力な救いのように思われるかもしれませんが、そうではありません。仏さまになろうと願い、そのために自ら修行をしようという心は、菩提心(ぼだいしん)といって、仏教ではとても尊ばれる心です。

しかし、しかしです。それではこの私には、はたして本当に修行を求めるような心があるのか。仏さまに成りたいと願うような心が、本当にあるのか。自分という人間を、仏さまの教えを鏡としながら、深く深くに観ていくのが仏教です。

そして、私の心の中には、修行をして仏に成ろうという心は一切なかった。そこをはっきりと聞かせていただくのが浄土真宗の教えです。そしてそこでは、「自力の心」が阿弥陀さまを「疑う心」となるのです。

また、「領解文」の中には、

たすけ候へとたのみまうして候ふ。

と、一見、こちら側から阿弥陀さまに対して「助けてくれ」とお願いをするように受け取れる部分がありますが、実はこれはそういう意味ではありません。私たちの側からではなく、阿弥陀さまの側から「必ずたすける」という呼び声をそのまま受け取り、そこをたのみにするという意味です。

つまり、さまざまな修行や自力の疑い心をふりすてて、「お前の後生の一大事、必ずたすけて仏にしてみせる。」という阿弥陀さまの願いを聞かせていただく。これが、浄土真宗の「他力」の教えです。

 

さて、今回は浄土真宗の教えということで、「自力」と「他力」について今、僕の聞かせていただいていることころで書いてみました。

また回を改めて、僕が今よろこばせていただいている浄土真宗の教えを、僕が聞かせていただいていることころで、紹介していけたらと思っています。