25歳の僕の歩み

このブログは、私が25歳の時にmixiに書いた日記を改めて読み返し、多少加筆訂正したものです。ご一読頂ければ幸いです。 南無阿弥陀仏

仏さまの唄 -善導大師、日没の無常偈-

 

2011, 6, 8

 

今回のタイトルの「仏さまの唄」というのには、ちょっとしたエピソードがあります。まずは、それを少し紹介したいと思います。

 

僕は今、習字を習っているんですが、先生はご高齢ということもあり、いつも30分くらい遅れて来られます。その間に、せっせと習字の準備や練習をしているんですが、日によっては、先生が来られるまでの時間、僕一人になるときがあります。そんなときに、僕は以前の日記でも紹介した聲明(しょうみょう)を唱えることがあります。(2011/05/07「聲明と合唱」で紹介しています。)

  

 

実は、僕が習字を習っている教室は、とても聲(こえ)が響くんです。だから、いつもの5割増しでうまく聞こえるので、唱えていて、とても気持ちがいいんです(笑)

そんなある日、僕が唱えているところに、一緒に習字を習っている小学校2年生の女の子が入ってきました。僕があいさつすると、その子が言うのです。

「あたし、それしっとるで!それ、ほとけさまのうたやろ。」

僕はとっても温かい気持ちになりました。「ほとけさまのうた」。なんてやわらかくて、やさしい表現なんだろうと思いました。

これが「仏さまの唄」のエピソードです。

 

また、実は漢字を使ったのにも意味があったりします。単に見た目の読みやすさということもありますが、「唄」という字には「仏の功徳をほめたたえる歌。また、その歌をうたうこと。」という意味があるみたいです。(『漢語林』で調べてみました。)

そういうこともあり、「聲明」というのも威厳があっていいけれど、今回は「仏さまの唄」という言葉をタイトルとして使わせてもらっています。

 

さて、それでは日記の中身に入っていきたいと思います。

今回は聲明の中で、善導大師(ぜんどうだいし)が著された『往生礼讃(おうじょうらいさん)』の中から、「日没偈(にちもつげ)」の「無常偈(むじょうげ)」を少し紹介したいと思います。この時点ですでに難しい漢字だらけになっていますが、できるだけ分かりやすく、かいつまんで説明していきたいと思います。

 

まず、著者の善導大師(ぜんどうだいし)。この方は、中国のお坊さんです。浄土真宗では、「善導独明仏正意(ぜんどうどくみょうぶっしょうい)」といって、善導大師ただお独りが、仏さまの仰りたかったことの正しい意味を明らかにされたと讃えられています。

 

また、善導大師はとても聲明が上手な方でした。そんな大師の聲明に関するエピソードがあります。

あるとき、善導大師がお導師(どうし)をされて、勤行(ごんぎょう:お経を唱えて仏さまのお徳を讃える儀式)をすることになりました。だけど、大師は黙ってずっと座ったまま、なかなかお経を唱え始めようとはされませんでした。

結局、しばらくたってから、勤行は始まったのですが、その時のことを不思議に思ったお弟子が、勤行の後に、そのことを大師に尋ねたんだそうです。

「善導大師。先ほどのお勤めのとき、どうしてなかなか唱えられなかったので すか?」

すると、善導大師は次のように答えられました。

「私のような愚かな凡夫(ぼんぶ)の口から、仏さまの真実の言葉が出てくるとは。なんと不思議なことであろうか。なんともったいないことであろうか。そのことを思うと胸が詰まり、なかなか聲が出せなかったのです。」

 

さて、そのような善導大師の著書の中の一つが、『往生礼讃偈(おうじょうらいさんげ)』です。これは、阿弥陀仏という仏さまの国(浄土)に生まれたいと願い修行をしている者が、日常に実修するべき六時(六つの時間)の礼拝の方法を明かしたものです。六時(ろくじ)というのは、もともとはインドの時間の見方で、一日を六つの時間に分けます。そして、それぞれの時間に、日没(にちもつ)、初夜(しょや)、中夜(ちゅうや)、後夜(ごや)、晨朝(じんじょう)、日中(にっちゅう)という名前が付けられています。

そして、今回紹介するのは、その中でも日没の時間に唱えるものの中の「無常偈(むじょうげ)」という部分です。「偈(げ)」というのは、「うた」という意味です。つまり「無常の唄」ということです。

 

また、僕は去年通っていた勤式指導所(ごんしきしどうしょ)というところで、浄土真宗本願寺派の聲明の「無常偈」を習いました。その旋律はとても複雑です。だけど今、僕が感じているところでいうならば、その旋律はどこか儚げで悲しく、そしてとても美しい。

さて、それではその「日没の無常偈」にどのようなことが書いてあるのかを僕なりに訳してみたので紹介します。

 

みなさん、どうか聴いてください。

日没の無常の唄を説きます。

 

人間はあくせくとしながら日常生活のさまざまな務めを営み、

命が終わり、去っていかねばならないことを忘れています。

 

それはまるで、風の中にある灯が消えることがないと

思っているようなものです。

次々といそがしく輪廻(りんね)する六道(ろくどう)の中には

本当に安心して定着できる所はありません。

 

いまだ悟りを開いて仏さまとなり、

六道から解脱(げだつ)して

苦しみの海から出るということを得ていないのに、

どうしてぼんやりと過ごしているのでしょうか。

なぜそのことに驚きをたて、おそれないのでしょうか。

 

みなさん、聞いてください。

まだ健康で力のあるときに、

自ら考え、自らを励ましながら、

本当の安らぎを求めて下さい。

 

これが、善導大師の著された「日没の無常偈」です。(「六道」については、2011/05/11「仏教の世界観1」で説明しています。よかったら、参考にしていみて下さい。)

  

 

さて、それでは最後に、「無常偈」の原文の書き下し文を紹介して終わりたいと思います。

 

もろもろの衆等(しゅとう)聴け。

日没の無常の偈を説かん。

 

人間悤々(そうそう)として衆務(しゅむ)を営み、

年命(ねんみょう)の日夜に去ることを覚えず。

 

灯の風中にありて滅すること期しがたきがごとし。

忙々(もうもう)たる六道に定趣(じょうしゅ)なし。

 

いまだ解脱して苦海(くかい)を出づることを得ず。

いかんが安然(あんねん)として驚懼(きょうく)せざらん。

 

おのおの聞け。

強健有力(ごうごんうりき)の時、

自策自励(じしゃくじれい)して常住(じょうじゅう)を求めよ。

(『七祖篇』六六九頁)