25歳の僕の歩み

このブログは、私が25歳の時にmixiに書いた日記を改めて読み返し、多少加筆訂正したものです。ご一読頂ければ幸いです。 南無阿弥陀仏

仏教の無常観 -刹那無常と一期無常-

2011, 6, 4

 

今回は「仏教の無常観」と題して、仏教の中で説かれている「無常(むじょう)の観方(みかた)」について書いていこうと思います。

 

書いていくんですが、その前に、この日記は、仏教の教えや考え方を読み手の方に押し付けるのが目的ではありません。ただ、僕自身が今喜ばせていただいている仏教、僕の場合は浄土真宗になりますが、そこのところをぜひ紹介したいなぁという思いで書いています。ですので、ご自身のペースでのんびりと読んでいただければ幸いです。

また、今回の無常観は2011/05/26/の「仏教の罪悪観」と共に、仏教を求めていく上での柱となるものですので、よろしかったら、そちらの方の日記も参考にしていただけたらと思います。

 

 

さて、それでは内容に入っていきますが、まずはじめに注意が必要なのは、これは罪悪観のところでもふれたことですが、これから話すのは「無常感」ではなく「無常観」だということです。つまり、無常を「感じる」のではなく、無常を「観る」ということです。仏さまの教えを通して、無常とは何かということを観ていく。これが「無常観」です。

また、自分自身に引き寄せてみながら読んでいただけると、ぐっと内容が深まってくると思います。

 

それでは本題に入ります。

今回は刹那無常と一期無常の二つを紹介したいと思います。

まずは刹那無常。刹那(せつな)とは、とても短い時間のことです。では、刹那無常とはどういうことかというと、私たちの人生は、刹那ごとに崩れ去っていくという無常です。

歳をとるということで考えてみても、私たちは誕生日の日に一気に一年分老いるわけではないですよね。この一瞬一瞬にも、少しずつ老いていっている。そして、誰も過去へ戻ることはできない。過ぎ去り、崩れ去った時間へと戻ることはできません。

 

そして、一期無常。一期(いちご)とは、一期一会の一期。一生ということです。その無常。一生の終わり。つまり、「死」ということです。

日本人の平均寿命はだいたい80歳前後だと思いますが、それは「死」を日本人というくくりでみた時の話。それでは、この私の「死」というところでみると、どうか。

それは、いつ死ぬかわからない。老衰ということもあるでしょうし、事故や病気で亡くなるかもしれない。いづれにせよ、終わりのある人生です。そして、その終わりは遠いにしろ、近いにしろ、刹那刹那に近づいている。

そして、人生の終わりである「死」を遠い未来のことするのではなく、「いま」にとりつめる。それが、仏教の無常観です。

 

そして、罪悪観と無常観をとりつめることができるのは、人間だけです。この地球上にいる人間以外のいかなる動物も、これらを観ることはできない。それは、人間だけができるとても尊いことだと思います。

罪悪と無常。この二つと真正面から向き合い、その問題を解決した方が仏さまであり、その仏さまの教えが仏教であり、その仏さまになるための教えが仏教です。そして、その教えとはいかなるものか。僕が聞かせていただいているところで、また順をおって紹介していきたいと思います。

 

さて、そして僕は、今から一泊二日の仏教青年会の研修会に行ってきます。今回は奈良の万行寺というお寺に行かせていただきます。万行寺は、「真宗カウンセリング」を立ち上げられた西光義敞先生の御自坊でもあります。

5月9日に下見に行かせていただいたんですが、山の奥にある、自然が豊かで、とても美しいお寺でした。それに、飼われている猫がとってもかわいい 笑

また、僕が参加している仏教青年会は「分級(少人数に分かれての座談)」というのがあります。御法話を聞いてすぐに終わるのではなく、少人数で、同じ青年世代の人たちと、仏法を中心にして、独りひとりのところを大切にしながら、しっかり関わり合いを持てたらと思っています。