25歳の僕の歩み

このブログは、私が25歳の時にmixiに書いた日記を改めて読み返し、多少加筆訂正したものです。ご一読頂ければ幸いです。 南無阿弥陀仏

仏教の世界観3 -因果の道理-

2011, 6, 21

 

今回は仏教の世界観その三ということで、「因果の道理(いんがのどうり)」について書いてみたいと思います。

書いていくんですが、その前に、この日記は、仏教の教えや考え方を読み手の方に押し付けるのが目的ではありません。この日記は、僕自身が今喜ばせていただいている仏教、僕の場合は浄土真宗になりますが、そこのところをぜひ紹介したいなぁという思いで書いています。ですので、ご自身のペースでのんびりと読んでいただければ幸いです。

 

それでは始めます。

まず、「因果の道理」という言葉。「因」というのは、原因の「因」のことで、「果」というのは、結果の「果」。「道理」とは、辞書(『広辞苑』)で調べてみたら、「物事のそうあるべきすじみち。ことわり。」とありました。つまり、「因果の道理」とは、「物事の原因と結果のことわり」ということです。

 

さて、それでは具体的にはどういうことかということについて、みていきたいと思います。仏教では、全ての物事には、その原因があり、結果があるというふうに考えます。つまり、「たまたま起こった」とか、「運が悪かった」という観方を仏教では否定します。たまたま偶然に起こるようなことはなく、全ての物事には必ず原因があり、その結果が現れているんだというふうに仏教では観ていきます。

そして、その原因を、自分の中に観ていきます。つまり、「こうなったのは、あいつのせいだ」とか、「神さまのせいだ」とか、「先祖のたたりのせいだ」とか、「こうなる運命だったんだ」といったような、原因を自分以外のものに観るような考え方を仏教では否定します。

また、原因といっても単一のものではなく、一つの結果が成立するためには、複数の様々な原因があるというのです。様々な原因が複雑に絡み合って、結果が出てくる。このことは、実生活の中でもいえると思います。例えば、病気。風邪をひくにしても、「前の日に雨の中、ずっと外にいた。」ということだけで、風邪をひくことはありません。「帰ってから、お風呂に入ったりして体を温めなかった」とか、「風邪をひいた人が近くにいた」とか、「体が以前から弱っていた」とか、「手洗い、うがいをちゃんとしなかった」などなど、他にもいろんな原因が考えられます。そして、その原因が複雑に絡み合って、「風邪」という結果に結びついたというわけです。たった一つの原因から、病気になるということはないんです。

 

また、このような原因と結果の関係には、
 ・善因楽果(ぜんいんらっか)
 ・悪因苦果(あくいんくか)

ということがあります。つまり、

「善いことをしたら、楽しい結果がおこる」

「悪いことをしたら、苦しい結果がおこる」

ということです。

そして、どのような「原因」であれ、その「原因」をひきおこした本人が、その「結果」を引き受けていかなければならない。自分の善悪の責任は、どこまでも自分が受けていくということです。

 

さらに、仏教ではこの関係を、今生(こんじょう)だけではなく、前生(ぜんしょう)・今生・後生(ごしょう)の三世(さんぜ)で観ていきます。ここが、仏教の世界観において、とても重要なところです。仏教は、「死んだら終わり」という教えではない。前生・今生・後生という三世をつらぬく因果。これが、仏教で説く「因果の道理」です。(「三世」については、2011/05/11「三世と六道」で詳しくふれていますので、よかったら参照してみてください。)

 

  

さて、ではここで、一つ譬え話をします。

机の上に、一粒のひまわりの「種(たね)」があるとします。だけど、その種は、いつまでたっても芽を出しません。

当たり前ですね。種は机の上では芽を出すことはできません。

じゃあ、芽を出すにはどうしたらいいか。

まずは「土」。種が芽を出すには、土の中に植える必要があります。だけど、深すぎてはいけません。適度な深さに植える必要があります。

次に「水」。種が芽を出すには、水が必要です。だけど、水が多すぎてもいけません。適度な量である必要があります。

次に「光」。種が芽を出すには、太陽の光が必要です。この他にも、種が芽を出して育つには、様々な要因が必要となってきます。

そして、ひまわりの「種」は、美しいひまわりの「花」を咲かせます。

 

さて、ではこの話を「因果の道理」の話と結び付けていきます。

まず「種」。これが「因」です。

次に、種が育つまでの「土」「水」「光」などの様々な要因。これを「縁(えん)」といいます。

そして「花」。これが「果」です。

つまり、「因」が様々な「縁」にふれることによって、「果」が生まれる。(上では、様々な原因が複雑に絡み合って、結果が生まれるというふうに紹介してきました。)

 

そして、ここからが大事なところです。それは、「ひまわり」の種から、「ひまわり」の花が咲いたということです。当たり前のことですが、いくら頑張って育ててみたところで、「ひまわり」の種から、「チューリップ」の花が咲くことはない。「ひまわり」の種からは、「ひまわり」の花しか咲かない。(上では、善因楽果・悪因苦果というふうに紹介してきました。)

では、「自分」はいったいどんな「種」を持っているのか?その「種」は、いったいどんな「花」を咲かせるのか?(上では、自分の善悪の責任は、どこまでも自分が受けていくというふうに紹介してきました。)

そこのところを、仏さまの説かれた「法(ほう)」をたよりとして、深く深く観つめていくのが「仏教」です。

 

さて、今回は仏教の世界観における「因果の道理」について紹介しました。

また、回を改めて、今まで紹介してきた仏教の「世界観」や「罪悪観」、「無常観」ともからめながら、今度は仏教の中でも、浄土真宗の教えについて、僕が聞かせていただいているところで、紹介していきたいと考えています。