25歳の僕の歩み

このブログは、私が25歳の時にmixiに書いた日記を改めて読み返し、多少加筆訂正したものです。ご一読頂ければ幸いです。 南無阿弥陀仏

児童相談所での学び2 -冷静に怒る-

2011, 6, 11

 

今回は「児童相談所での学び」の其の二ということで、指導のために「子どもを怒る」ということについて、書いてみたいと思います。

ただ、内容に入る前に、其の二ということで、当然ながら其の一もあります。

 

 

 

この日記では、僕が働かせていただいていた児童相談所の一時保護所について、大まかな説明をしています。よかったら、参照してみてください。

 

さて、それでは始めます。

僕が児童相談所の勤務を通して教えていただいたことの中に、「毅然(きぜん)とした態度での指導」というのがあります。

児童相談所の一時保護所には、様々な事情を抱えた子どもたちが預けられます。そんな子ども達と共に、生活をしていくわけですが、生活には当然ルールがあります。施設ですので、朝起きる時間や食事の時間、勉強の時間や遊ぶ時間など、時間には区切りがあります。これが崩れてしまうと、大変なことになります。(もちろん、状況に合わせて適宜変更することもあります。)

また、食事の食べ方(マナーや残し物をしない等)やお風呂の入り方(きちんと体や頭を洗えているか等)、掃除の仕方や勉強の仕方、そして、喧嘩せずに遊べているかなど、いろいろと指導するポイントがあります。

 

だけど、それらの指導に対し、いつも「はい、分かりました」と素直に子ども達が聞いてくれるわけはありません。ルールを守ることは、生活をする上でとても大事なことです。でもだからといって、当然のことながらみんなが当たり前のように守ることができるわけではないのです。

その時に必要となってくるのが、「毅然とした態度での指導」です。それは、「きちんとメリハリのついた指導」ともいえるんじゃないかと思います。やるべきときには、しっかりやる。

そして、その指導に伴ってくるのが、「子どもを怒る」ということです。やさしい言葉だけで通じるのなら、それにこしたことはないです。だけど、それでも通じないのならば、惰性に流されることなく、きちんと怒る必要がある。そのことを、僕は児童相談所で教わりました。

なんとしても譲ることが出来ない。もしくは、直ちに止めなければならない。そんなとき、僕は子どもを怒りました。そしてそれは、場合によってはかなり激しくなるときがあります。

僕は叫ぶように、渾身の力を込めて子どもを怒ったことが何度かあります。

大抵の子どもは、抑えつけることが出来ました。だけど、虐待などを通して怒られることに慣れてしまっている子どもには、僕がどれだけ怒っても、ほとんど通用しない時もありました。

 

「子どもを怒る」ということで、職員の方や先輩方のアドバイスから、そして僕自身の経験から学んだことがあります。それは、「子どもを怒る」ときは、冷静に怒らなければならないということです。外側は怒っていても、内側は冷静でいないといけない。どんなに激しく怒ろうとも、それが子どもの指導のためであるのならば、きちんと子どもを説得しなければなりません。つまり、「なぜ怒られているのか」ということを、きちんと子どもに伝えなければならないんです。そうでなければ、ただ単に子どもに自分の怒りをぶつけているだけになってしまいます。

そして、そのことを伝えるためには、一見、怒っているように見えても、内側は常に冷静でいる必要があります。 つまり、怒りながら、「なぜ怒られているのか」ということをどうやって子どもに伝えるかということを同時に考えなければならないんです。

 

僕の先輩は、「怒ったふりをする」という表現を使っていました。

だけど、これはとても難しい。実際に僕自身がやってみて、そのことを痛感しました。少し怒ったふりをするくらいで、しゅんっとして言うことを聞いてくれる子どもなら、あまり問題はありませんが、おもに非行系などの怒られることに慣れている子どもは、少々怒った程度では、まったく動じません。だから、こっちも本気で怒る必要があるんです。「僕は本当に怒っているんだ!」ということが伝わるような怒り方でなければ、大抵の場合は、子ども達に適当にあしらわれて終わりです。

そしてその中で、子どもに「なぜ怒られているのか」ということを伝えるのは、とても難しいことです。

 

僕の経験上、激しく怒る時には、どんなに冷静でいようと思っていても、頭の中に血が上ってくるというか、内面まで怒りが浸透してくる感じが手に取るようにわかります。だけど、怒りに囚われてしまっている状態では、まともにものを考えることはできません。これは断言できます。

このようなこともあり、きちんとした指導目的のもとで「子どもを怒る」ということは、とても難しいことだと思います。

 

また、少し補足を加えておくならば、今回紹介してきた指導のために「子どもを怒る」ということは、やたらめったら子どもを怒るということとは、まったく違うということです。怒らずにすむのなら、それにこしたことはありません。むしろ、やむをえず「怒る」という手段を使うということになると思います。

また、子どもを怒る際に、「冷静に怒る」ということが絶対にできていなければならないということではありません。これはあくまでも、「理想」です。しかし、これは限りなく近づけていくべき「理想」であると、僕は思います)。失敗は誰にでもあります。怒りにまかせて子どもを怒ってしまったという場合もあるでしょうし、「なぜ怒られているのか」ということがまったく伝わらなかったという場合もあると思います。実際、僕が子どもを怒った時も、これらの場合のどちらか、あるいはその両方になってしまった場合が何度もありました。

そこで大切になるのが、「アフターケア」です。怒ったままで終わるのではなく、その後に子どもをケアすることはとても大事なことです。それは、「怒り」から受けた子どものダメージを緩和することもありますし、アフターケアを通して、「なぜ怒られたのか」ということが伝わることもあります。

そして、そのアフターケアをするのは、怒った本人でもいいですし、他の人でもいいです。特に、他の人からのアフターケアを信頼することが出来ると、「毅然とした態度での指導」はとてもやりやすくなります(むしろ、「毅然とした態度での指導」は他の人からのフォローなしでは、かなり実現が難しいと思います)。

以上が、児童相談所の仕事を通して僕が学んだ「毅然とした態度での指導」です。

今回の日記のテーマの話は、ここまででお終いです。

 

だけど、実は今、僕の中で子どもを怒らなくてもいい、むしろ怒る必要がない指導法が、だんだんと形になってきています。そのきっかけを作って下さったのが、「夜回り先生」こと、水谷修(みずたに おさむ)さんでした。僕は直接の面識があるわけではないですが、先生からは、書籍やテレビ番組、また講演会などを通して、多くのことを学ばせてもらっています。

僕は水谷先生のこの言葉に驚きました。

 

私が21年間の教員生活を振り返り、ただひとつだけ胸を張れることがある。それは、一回も生徒を叱ったり、殴ったことがないということだ。私は絶対に生徒を叱ることが出来ない。

水谷修夜回り先生サンクチュアリ出版、p.32。

 

水谷先生が関わっておられる生徒は、僕が児童相談所で関わってきた子ども達とかなり近いものがあります。

でも、先生は一度も子どもを叱ったことがない。

だけど、先生は子ども達ととっても素敵な関係を作っている。少なくとも、僕にはそう観えました。

だから、このことは僕にとって、とても衝撃的だったんです。

 

僕は怒ることが苦手です。むしろ怒ることを恐れています。子どもを激しく怒るたび、いつもその後に強い後悔の念が襲います。

 

「僕の思いは、子どもに伝わったんだろうか。」

「僕の指導は、本当に子どものためになったんだろうか。」

「本当にあんなに怒る必要があったんだろうか。」

「怒る前に、もっと何か適切的な指導が出来たんじゃないだろうか。」

「子どもに嫌われてしまったんじゃないだろうか。」

「いや、嫌われて当然か。嫌われてもしかたがない。」

「だけど、今の僕にはああするしかなかった。」

「あの子はまた、僕と話をしてくれるだろうか。」

「あぁ、今日はひどく疲れた…。」

 

そんな僕にとって、水谷先生の言葉は、ものすごく魅力的なものでした。

だけど、初めはその言葉が、僕の向き合っている現実と、あまりにも遠く離れたもののように感じていていました。でも、少しずつその言葉は僕の中に染み込んできて、今、僕の向き合う現実と、深く結び付いてきています。

そこのところを、また回を改めて、日記として詳しくふれていきたいと思っています。