いのちの食べかた -知ること、思うこと-
2011, 5, 29
「いのちの食べかた」という本やDVDを知っていますか?僕たちが「食べもの」と呼んでいるものが、どのような過程でできているのかにふれることができる作品です。
今回は、森達也さんの『いのちの食べかた』という本を紹介しながら、読み手の方と共に、考えてみたいなぁと思ましす。
それでは始めます。
普段、当たり前のように食べているお肉。だけど、当たり前のことですが、お肉はもともと牛であったり、豚であったり、鶏であったり。つまり、「生きもの」だったわけです。「生きもの」を殺して、僕たちはお肉という「食べもの」として呼んでいる。
じゃあ、「生きもの」から「食べもの」になるまでの過程を見たことがありますか?「生きもの」がどのように育てられ、どのように殺され、「食べもの」になるのか。牛や鶏を見たことがある人はたくさんいるし、スーパーなどで売ってるお肉を見たことがある人もたくさんいると思います。
だけど、その間を見たことがある人は少ないのではないでしょうか。
『いのちの食べかた』には、この過程の部分がどのようになっているのかが描かれています。そして、そのことを描く上で、著者はこのようなことを述べられています。
『牛や豚たちはきっとこう思っている。「僕たちは食べてもらえて幸せだ」と。』
……そんなごまかしやきれいごとを、僕はこの本に書くつもりはない。殺される彼らはやはり哀れだ。殺されて嬉しい「いのち」などありえない。幸福なはずはない。
僕が書きたいことは、彼らを殺しているのは、君であり、僕であり、僕たちすべてなのだということだ。(p.62)
牛や豚がと場で殺される理由は、僕らが食べるからだ。ところが僕らは彼らの哀しみを知らない。見て見ないふりをしてきたのだから。知らないのだから。だから平気で肉を残す。残した肉はゴミ箱に捨てられる。(p.68)
また、このようなこともおっしゃられています。
スーパーで売られているパック入りの豚肉や牛肉が、そもそもは生きている牛や豚だということは、当たり前のことだと君も思うよね。わざわざ本に書くようなことじゃない。
でも僕らは、とても忘れっぽい。
言い換えればすぐに、目の前の現生や今の環境に馴れてしまう。それが当たり前になってしまう。これを思考停止と言う。(p.46)
要するに麻痺だ。この麻痺がないと生活は維持できない。確かにそうだ。でも時には、この麻痺について、この矛盾について、少しくらいは考えたほうがいい。
僕たちはとても身勝手で矛盾した生きものだ。それが良いか悪いかは別にして、とにかく君の身の回りのほとんどは、たくさんの「いのち」の犠牲のうえに成り立っている。(p.67)
思考停止という麻痺。この麻痺がなければ、僕たちは生活していくことはできない。だけど、この麻痺について、少し目を向けて考えて見ることは、僕自身、とても大切なことだと感じています。
また、このようなこともおっしゃられています。
戦争は、いつになっても終わらない。
なぜだろう?大きな理由は、「知らない」ことにあると僕は思う。あるいは、知っていたはずなのに、いつのまにか忘れてしまっているからだ。(p.79)
誰もが同じように生きているということ、誰もが同じように笑ったり泣いたり怒ったり悩んだり傷ついたりするという当たり前のことを、僕らが忘れてしまったとき、いじめや戦争はいつのまにか起こる。
その根底にあるのは、「知らない」ことから生まれる差別意識だ。(p.76)
「知らない。」あるいは、「いつのまにか忘れてしまっている。」。「いのちの食べかた」の話から、急にいじめや戦争の話になったけれど、この本を通じて、僕はこれらの問題に繋がりを感じています。思考停止という麻痺を当たり前のこととしてそのままにしてしまっている。そのことの危険性を、この部分から感じます。
それでは、もう少し本の中の意見を紹介します。
人は人を差別する。差別したい生きものなのだ。そうやって小さな優越感に浸りたい。そんな感情が、僕たちにはきっとある。僕にもある。そして君にもある。だから差別はなくならない。昔話じゃない。今も同じだ。でも差別しているのが、ほかならない自分自身なんだと、人はなかなか認めない。
よく考えてみよう。きっと君にも覚えはあるはずだ。僕にはある。子供の頃も、そして大人になった今も、気づかないうちに人を差別して、そして傷つけてしまったことはいくらでもある。
だから目をそむけてしまう。
と場がどこにあるのか、何をしているところなのかなぜ多くのことが語られないできたのか、目をそむけるうちに、僕らはいつのまにかそんなことを忘れ始める。
そしてそのうちに、目をそむけたのが、自分自身であることすら忘れてしまう。(p.94・95)
大切なことは「知ること」なんだ。
知って、思うことなんだ。
人は皆、同じなんだということを。いのちはかけがえのない存在だということを。
だから僕たちは、カレーやマーボー豆腐やハンバーグを食べながら、この肉がかつてはどんな姿をしていたのかを、どんなふうに「いのち」を失い、そしてどうやって加工されたかを知らねばならない。
と場で汗びっしょりになって働く人たちのためだけじゃない。食べられるためにこの世に生まれて、広い世界を知らないままに、と畜される牛や豚や鶏のためだけでもない。
僕らのためだ。そして何よりも、君自身のためなんだ。(p.114・115)
どうでしょうか。ここまで読んでいただいた方それぞれに思われるところがあったんじゃないかと思います。僕自身もこの本を読んで、たくさんの思いが出てきました。そして日記を書いている今も、いろんな思いがわき起こってきています。
ただ、今回は僕の思いや考えは少し置いておいて、最後にこの本のあとがきにある文章を紹介して終わりたいと思います。
世界は広い。すべてを知ることなんてもちろん無理だ。でも、僕は自分の身の回りのことくらいは、もっと知りたい。
人は多い。そのすべてと知り合いになることはもちろん無理だ。でも、僕はできるだけ多くの人の生活を知りたい。知ることが無理ならば、せめて思いたい。
普通のことだよね。
でもみんな、忙しかったり、焦ったりしているうちに、いつのまにか普通じゃなくなってしまう。
そして走りだす。誰かが走り、それを見て誰かも走り、それをまた見てもっとたくさんの誰かが走り、気がつけば、みんな走っている。同じ方向に。傍目も振らず。
置いてけぼりになったような気がしても、走る理由が分からないうちは走る必要なんてない。
走る人は周囲の景色が分からない。足もとに跳ねるバッタや葉っぱの裏にいるカタツムリに気づかない。夜明け前の空が透明なブルーであることや、秋が深まって息が白くなる瞬間や、じっと夜空を見上げていれば都会でも たくさんの星が見えてくることなどを忘れてしまう。
ゆっくり歩こう。いろいろ悩みながら。いろいろ考えながら。いろいろ眺めたり、発見したり、ため息をついたりしながら。どうせゴールなんて、そんなに変わらない。(p.122・123)