25歳の僕の歩み

このブログは、私が25歳の時にmixiに書いた日記を改めて読み返し、多少加筆訂正したものです。ご一読頂ければ幸いです。 南無阿弥陀仏

夜回り先生からの学び -「まつ教育」、そしてカウンセリングに学ぶ「子どもとの関係づくり」-

2011, 7, 8

 

今回は、夜回り先生こと、水谷修先生から僕が学んだことの一つ、「まつ教育」について書いてみようと思います。

そして、カウンセリングに学ぶ「子どもとの関係づくり」というのは、この日記を書いている過程で、僕の中で繋がってきたところです。水谷先生からの学びにカウンセリングがあるわけではありません。

またこの日記は、2011/06/11「児童相談所での学び -冷静に起こる-」の続編でもあります。

 

児童相談所で学んだ「怒る」ということ。だけど、その「怒る」をしない水谷先生の教育。僕は水谷先生の教育について学ばせていただき、僕自身の求めてきた理想の教育像というのが、少し観えてきている感じがしています。そこのところを、この日記を通して整理しながら書いていきたいと思います。

 

それでは始めます。

今回は「まつ教育」ということですが、「まつ」は「待つ」ということです。つまり、子どもを待つ教育ということです。

そこのところで、まず水谷先生の言葉を紹介してみたいと思います。

子どもたちのこころの成長には、時間と余裕が必要です。子どもたちにはじっくりと考える時間が、親や大人にはそれを見守る余裕が必要です。

子どもはとても不完全な存在です。子どもは大人の期待を裏切るし、でき なくてあたりまえなのです。

親や大人の考えを強制することなく、どうしたいのかを子どもたちに問いかけ、自ら選ばせる。時間がかかる、子どもが失敗するとわかっていても、とにかくやらせるのです。大人から見たら多少は危険なことだとわかっていても、子どもが自分で決めたのなら、やらせてみて、親や大人はそれを黙って見守っている。その代わりに、失敗してしまったら、その結果に自分で責任をとらせ、きちんと後始末つける方法を考えさせるのです。

これを繰り返さない限り、自分でものを考え、ものを決定し、その行動に責任をもち、成し遂げるという、私たち大人が社会であたりまえに求められている能力、この考える力は身につかないのではないでしょうか。

しかし、残念なことにいまの親や大人たちはそれをしていません。親や大人たちにゆとりがなさすぎるのです。子どもたちが一歩踏み出すことをサポートできている親が、いったいどれだけいるのでしょうか。

いまの日本の子育てや教育には、これが欠けています。

(『あした笑顔になあれ 夜回り先生の子育て論』、p.103,104)

こころの成長には、時間と余裕が必要。一見当たり前の様ですが、とてもないがしろされてきていることなんではないかと、僕は思います。黙って見守る。これは、無関心に放っておくということとはまったく違います。こちらからの要望やアドバイスを押し付けていくのではなく、子ども自身の成長を、しっかりと「待つ」。

そして、このことはとても難しいことなんだとも思います。時間的なこともありますが、それよりも、自分の要望やアドバイスを少し横に置いておくということが難しいと、僕は感じています。相手を自分の思い通りにしたい。その思いは、自分にとって大切な人であれば、なおのこと強くでてくる思いです。

「こうしたら、もっと幸せになれるのに!」

「ああしなければ、苦労することになる!」

だけど、そのような自分の思いを少し横に置いておいて、しっかりと子どもの成長を「まつ」。子どもが、「子ども自身の力」で成長するのを「まつ」のです。

 

そして、この「まつ教育」の実現には、カウンセリングから学んだ関係づくりが力強くサポートしてくれると、僕は考えています。

まず、子どもの話をしっかりと「聴く」。子ども考えることだからと上から目線で馬鹿にするのではなく、その子がどのようなことを言いたいのか、考えているのかを、しっかりと「聴く」。

そして、時にはそれをサポートする。以前の日記でも書いてきましたが、形の無い心の中の思いを、形の有る言葉にする作業は、とても難しいことです。例えば、

「きみはさっきこのように話してくれたけど、それは、こういうことが言いたかったのかな?」

と話の内容をある程度整理して伝え、それであっているかどうか聞いてみる。(しっかりと子どもに確認をとることが大切です。)これも、「話を聴く」ことの一環です。

そして、話を聴くときは、「子どもの気持ち」と「私の気持ち」をきっちりと別けて聴く。このことも、とても大切です。「子どもの気持ち」なのか、「ああしてほしい。」「こうなってほしくない。」という「私の気持ち」なのか、そこのところはきちんと別けて聴く必要があります。そしてこれは、できているようで案外できているつもりになっている場合が結構ありますので、よくよく注意すべきことだと、僕は思います。

「きみの考えていることを、聞かせてもらいたいなぁ。」という気持ちが伝われば、子どもは素直にそれに応えてくれます。そしてそこで、子どもは自ら「気づき」を起こしていくし、聞いているこちら側も、子どもの本当の思いに「気づく」のです。それに、うれしそうにいきいきと輝いた笑顔で話してくれる子どもの姿は、とても素敵です。

そして、その上で伝えたいことがあるのなら、決めつけたり、抑えつけたりするような「あなたメッセージ」ではなく、「私メッセージ」でやさしく丁寧に伝える。このようなメッセージが、子どもの心に本当に染み込んでいくのではないかと思います。

逆に、怒りや恐怖で伝えたメッセージは、子どもの反発や委縮を生んでしまったり、もし聞いていたとしても、たいがいはその場しのぎになってしまい、きちんとこちらのメッセージが伝わることは、ほとんどないと、僕は思います。むしろ、メッセージが歪んだ形で伝わってしまい、本来伝えたかったことと真反対のことが伝わってしまうこともあります。

このような子どもとの関係作りが、「まつ教育」を実現させていくのではないかと、僕は考えています。

 

また、このような「まつ教育」を実現させるには、「待つ」側に心の余裕が必要です。心がいっぱいいっぱいの時には、なかなか相手を「待つ」ということはできません。水谷先生がおっしゃられるように、親や大人たちにゆとりがなさすぎるという現状があると思います。

だけど、これまで書いてきたようなカウンセリングに学ぶ「子どもとの関係づくり」が、日常生活の中に心のゆとりをもたらしてくれるのではないかと、僕は考えています。そして、このような関係づくりは、なにも子どもとの間に限った事ではありません。家族や友達、それ以外にも自分の周りにいる人たちとの間でできる、素敵な関係づくりだと思います。だから、「いま・ここ」の僕にできるところで、「まつ」ということを実践していきたいと思います。そして、「まつ教育」こそが、今の僕にとっての「怒らない教育」、そしてそれは、「怒る必要がない教育」です。

 

また、僕はカウンセリングの学びを通して、「僕にできること」と「できないこと」の線引きをしてもらったと感じています。そこのところは、改めて別の日記でふれていきたいところなんですが、それを元に考えると、「まつ教育」こそ、「僕にできる教育」だと今は感じています。そしてそれは、「僕が理想とする教育」でもあります。まだまだ経験不足ですが、今の僕は、そのように思っています。

 

さて、それでは最後に、水谷先生の言葉を紹介して終わりたいと思います。

 

教育というのは、本来、根のないところや種がないところで、無理やり伸ばそうとすることではありません。その子が自ら自分の可能性はどこにあるのか、自分の明日への種はどこにあるのか、それに気づくまで待つことです。そしてその子が気づいてくれたら、まわりの人とのいい出会い、いい本との出会い、いい授業などといった栄養分をゆっくりゆっくり与えてあげる。子どもたち自らがそれを伸ばし、花咲かせることを助けることが教育なのです。

(『あした笑顔になあれ 夜回り先生の子育て論』、p.102,103)

 

 ☆☆参考文献☆☆

水谷修、『あした笑顔になあれ 夜回り先生の子育て論』、日本評論社、2006年6月15日。