25歳の僕の歩み

このブログは、私が25歳の時にmixiに書いた日記を改めて読み返し、多少加筆訂正したものです。ご一読頂ければ幸いです。 南無阿弥陀仏

仏教の世界観1 -三世と六道-

2011, 5, 11

 

今回は、仏教の中で説かれている「世界観」について書いてみたいと思います。

 

実は、仏教の世界観と、普段私たちが感じている、あるいは考えている世界観とは違いがあるんです。少なくとも、僕自身はそう感じました。

だけど、この仏教の世界観を知るということは、仏法を聞く上でとても大切なことだと僕は考えています。また仏教に興味がない方でも、この話は個々人の知識や教養の糧に十分なるものではないかと思います。

それにこの日記は、読み手の方に仏教の考えを頭ごなしに、上から押さえつけるようなものではありません。ですので、ご自身のペースで、のんびりと読んでいただければ幸いです。

 

それでは、日記の内容の方に入っていきたいと思います。ただ、いきなり本題の「仏教の世界観」についての話しに入る前に、まずは、そもそも「仏教」ってなんなんだろう?ということについて、少しだけ簡単にふれておきたいと思います。

仏教とは、今から約2,500年前にインドに生まれられて、様々な修行の末、さとりを開いて仏と成られた、お釈迦(しゃか)さまによって説かれた教えです。

ここで抑えておきたいところは、「仏教」という教えは、「仏さまが説かれた教え」であり、その内容は、「仏さまに成るための教え」であるということです。この二つは、とても単純なことかもしれませんが、このことをきちんと抑えておくことは、とても大切なことだと思い、紹介しました。

 

それでは、本題に移ります。まず、「世界」という言葉。実はこれ、仏教用語なんです。「世」は過去・現在・未来の三世(さんぜ)。つまり時間的な領域を表しています。「界」は東西南北上下といった空間的な領域を表しています。この時間的な領域と空間的な領域を合わせて、「世界」というのです。

ここで注目していただきたいのは、過去・現在・未来の三世ということ。実はこれ、私たちが今生きている、「この世」だけの事ではないのです。仏教では、この世に「おぎゃあ」と生まれる前の世界を前生(ぜんしょう)といって過去の世界。この世の事を今生(こんじょう)といって現在の世界。そして、この世の命が終わり、死後におもむく後生(ごしょう)という未来の世界。この三つの世界を指して、三世といわれているのです。

おそらく、このことを聞いて、自分の世界観や考え方とは全く違うなぁと感じたり思われた方もおられるのではないかと思います。特に、死後の世界。死んだら焼かれて、それでお終いとか、死んだら無になって何も残らないとか、そのように思われ、考えているという方もおられるんじゃないかと思います。

また、「死後の世界の話なんかして、なんだか怪しい話になってきたなぁ」と思われる方もあるかもしれません。

この日記を読まれて思うこと、考えることもそれぞれにあると思いますが、もう少しお付き合いしていただけたらと思います。

 

それでは、次に何をお話しするかというと、過去・現在・未来の三世のことが出てきましたので、次に、三世の世界とはどのような世界なのかということをお話しします。それは、六道(ろくどう)という世界についての話です。読まれている方の中には、六道輪廻(ろくどうりんね)という言葉を耳にしたことがある方もおられるんじゃないでしょうか。

六道とは、

・地獄(じごく)

・餓鬼(がき)

・畜生(ちくしょう)

・修羅(しゅら)

・人間(にんげん)

・天上(てんじょう)

の六つの世界のことをいいます。

それでは、一つ一つの世界について、簡単にふれていきましょう。

 

まず、地獄。この言葉は、一度は耳にしたことがあるかと思います。地獄は苦しみの極まった世界。恐ろしい猛火の中に放り込まれたり、串刺しにされたり。さらに、地獄に住む鬼がふぅっと息を吹きかけると、たちどころにバラバラになった体がもとにもどるといいます。つまり、この世界では「一度死んだら終わり」というわけにはいかないのです。苦しみを受けるのは一度や二度ではなく、自分自身の業(ごう)と呼ばれる罪が消えるまで、苦しみ続けなければならない世界です。

次に、餓鬼。この世界は、飢えで苦しむ世界です。食べ物が欲しくて欲しくてたまらない。だけど、この餓鬼界に住む人たちの姿は、みんなやせ細っています。なぜかというと、のどがとても細くて、食べ物を食べることができないんです。余談ですが、生意気な子どもの事を「ガキ」と言ったりしますが、それもここからきています。おそらく、食べ物が少ない時代に、いくら食べてもまだ食べたい、まだ欲しいと駄々をこねる子どもの姿をみて、餓鬼と呼ぶようになったのでしょう。

次に、畜生。これは獣の世界。犬や猫、牛や豚、鳥や魚、虫などがこれにあたります。「犬畜生」と人をののしっていう言葉がありますが、まさにその通りなんです。犬は畜生です。

次に、修羅。阿修羅(あしゅら)と言った方が、耳になじみがあるかもしれませんね。ここは争いの世界。年がら年中、戦争をやっています。それは、お互いを信じることが出来ない世界だからだといわれています。他人を信じることが出来ないから、常に警戒心を抱き、そして恐怖のままに、怒りのままに相手を攻撃する。それが永遠と繰り返されている世界です。

そして、人間。これは言わずもがな、私たちが今住んでいる世界の事です。

最後に、天上。いわゆる神さまの世界。ここは楽しみしかない世界です。うらやましいですね。だけど、一つだけ落とし穴があります。それは、天上界にも「死」があることです。今までさんざん楽しい思いばかりをしてきたのですが、ある日、それは突然訪れます。そこで今までの楽しみは一変して、激しい恐怖と苦しみに変わります。その時の苦しみは、地獄の苦しみにも匹敵するほどだといわれています。

以上の六つの世界が、六道です。そして、これら六道の世界全てを、仏教では「迷いの世界」であると説かれています。

 

さらに、上でも一度申しましたが、六道輪廻という言葉があるように、私たちはこの六道の世界で生れては死に生れては死に、ぐるぐるぐるぐるとへめぐり続けているんだと説かれます。つまり、生まれる前から、いやそれどころではなく、考えることもできない遥か昔から、六道の世界をへめぐりながら、迷いに迷い続けてきたのが、この私だというのです。

そして「後生」という言葉があるように、この世の縁が尽き、命が終わった時には、六道の世界の内、生きている間に自分自身がしてきた業に応じた世界へとおもむき、生れては死に、また生れては死にということを繰り返してきた。(さらに、特に浄土真宗のみ教えでは、阿弥陀仏の教えに出遇わなければ、これから先も、ずっと迷い続けていかなければならない存在が、この私であると説いています)

その迷いの繰り返しから、解脱(げだつ)といって抜け出すための道が、仏道(ぶつどう)と呼ばれる仏さまに成るための道なのです。仏さまに成るということを、「さとる」とか「目覚める」とか言いますが、それはこの迷いの繰り返し、つまり輪廻から完全に目を覚ました方のことを仏さまというのです。

そして最初にも申しましたように、その仏さまの説かれた教えが仏教であり、また仏さまに成るための教えが仏教なんです。

 

最後に一つだけ、注意点を申しておきます。よく地獄の反対は浄土といわれますが、これは間違いです。浄土とは、迷いの世界である六道を抜け出した仏さまの世界のことです。地獄と反対というよりも、むしろ全く別の世界のことなんですね。だから正しくは、地獄の反対は同じ迷いの世界の中の天上界となるんです。

 

今回は、ここまでにしておきたいと思います。仏教の世界観と題して、過去・現在・未来の三世と六道について紹介してきました。また、「仏教」とは何かということについても、少しだけ、だけど僕にとっては大事なところにふれました。

 

また、この日記を読んでいて、もしかしたら、仏教の世界観はおとぎ話のような現実とかけ離れたものだなぁとか、自分の世界観とあまりにも違いすぎてついていけないと思われた方もあるかもしれません。そうした方に、一つだけお伝えしておきたいことがあるんです。それは、仏教を聞いていく上で、三世や六道といった世界観を自分自身が頑張って信じる必要はないということです。少なくとも、僕はそう思っています。

なぜなら、仏教を聞くということは、自分自身の考えていることや考え方などは自分の思いとして大切に受け取り、そして、それをそのまま少し横においておいて、その自分の思いとは別に、仏教では、仏さまがおっしゃられていることを、そのまま聞いていく。これが、「仏教を聞く」ということだと思うんです。

つまり、「仏教を聞く」ということは、何も自分自身の思いや考えを頭ごなしに上から押さえつけるようなことではなく、ただただ「仏さまはこうおっしゃられている」ということを聞いていくことなんです。だから、今回の日記で仏教の世界観を紹介したのも、その世界観を押し付けようというのではなく、「仏教という教えは、こうした世界観の上に話されている」ということをお伝えしたいなと思い、書いてみました。

 

また、このように何かの考えを押し付けるのではなく、自分の思いも大切にしながら、それを少し横においておいて、別の思いや考えを、そのまま聞いていく。実はそこに、僕は今、「仏教」と「カウンセリング」の深い繋がりというものを自身の実体験を通して感じています。このことについては、また改めて、これからの日記でふれていこうと思います。

 

また別の日記で、今回の仏教の世界観の続きの話として、今度は六道の中の人間界を中心に、「人として生まれてきたことの意味」ということについて書いてみたいと思っています。