25歳の僕の歩み

このブログは、私が25歳の時にmixiに書いた日記を改めて読み返し、多少加筆訂正したものです。ご一読頂ければ幸いです。 南無阿弥陀仏

仏教の世界観2 -人間に生まれた意味-

2011, 5, 17

 

今回は、仏教の世界観2ということで、仏教の上での「人間に生まれた意味」について書いていこうと思います。

 

始める前に、今回は仏教の世界観「2」なので、当然「1」もあります。また、今回の日記は前回の日記の続きものなので、まだお読みでない方は「仏教の世界観1 -三世と六道-」から読むことをお勧めします。

milleface.hatenablog.com

 

また、これは「仏教の世界観1」でも申したことですが、この日記は、仏教の教えや考え方を読み手の方に押し付けるのが目的ではありません。ただ、僕自身が今喜ばせていただいている仏教、僕の場合は浄土真宗になりますが、そこのところをぜひ紹介したいなという思いで書いています。ですので、ご自身のペースでのんびりと読んでいただければ幸いです。このことは、僕が日記で仏教(浄土真宗)のことについて書いていく上で、とても大事にしたいところですので、仏教系のことを題材にした日記には、毎回、決まり文句のように書いていきたいと思います。

 

さて、それでは本題に入っていきたいと思います。前回の日記で、「三世」と「六道」について説明しました。今回は、その世界観を踏まえた上で、人間に生まれた意味についてお話ししてみようと思います。

まず、六道の世界ですが、これは三善道(さんぜんどう)と三悪道(さんまくどう)の二つに分けることが出来ます。どのように分けることが出来るかというと、

・三善道…天上、人間、修羅

三悪道…畜生、餓鬼、地獄

というふうになります。この二つ、字だけ見ると三つの善い道と、三つの悪い道というふうに解釈できると思います。

 

それでは、ここでいう「善い」と「悪い」とは、一体何を基準にしていわれていることなんでしょうか。

 

それは「仏法を聞ける」か「聞けない」かというところが基準になっているんです。「仏法を聞けるかどうか」。このことを基準として、六道の世界を三善道と三悪道の二つに分けているんです。

では、なぜそうなるかということについて、六道を一つずつみていきたいと思います。

 

まずは三悪道の一つ、地獄から。ここは前回も申したように、苦しみの極まった世界です。だから、苦しくて苦しくて、仏法なんて聞いている場合ではありません。また、地獄では仏さまのやさしいお姿も、恐ろしい鬼にしか見えないといわれています。

次に餓鬼。ここは飢えで苦しみ続ける世界。だから、地獄と同じように仏法どころではないのです。「仏さまの教え」ではなく、「食べ物」が欲しくて欲しくてしかたがないのです。ですので、仏さまが近づいていかれても、食べ物かと思って噛り付くともいわれます。

次に畜生。ここは動物の世界。犬に向かって「諸行は無常なんだぞ!」とどれだけ説いたところで、「ワンッ!(遊んで!腹減った!)」としか返ってきません。また畜生は自分の行いを反省することができず、さらに自分の死を先んじて考えることもできないといいます。頭のいいチンパンジーや、言葉をしゃべることが出来るオウムや九官鳥であっても、やはり仏さまの教えを聞くことはできないんです。

ここまでが三悪道の世界です。

 

そして、残りの修羅、人間、天上の3つの世界では仏法を聞くことが出来ます。しかし出来はするけど、そこには落とし穴もあるんです。

まず修羅。ここは争いの絶えない世界。この世界に住む者には、仏法を聞く能力はあります。 だけど、年がら年中戦争をやっていますから、実はそれどころじゃないんです。だから、仏法を聞くことはできるんだけれども、それはこの世界ではとても難しいことなんです。

次に人間より先に、天上にいきます。ここは楽しみの極まった世界。この世界に住む者にも、仏法を聞く能力はあります。だけど、周りには楽しいことがたくさんたくさんあります。だから、それどころじゃないんです。仏法を聞くことはできるんだけれども、楽しいことがありすぎて、仏法になんかにちっとも目がいかない。だから、この世界でも仏法を聞くことはとても難しいことなんです。

 

それでは人間はどうか。実はこの人間界こそ、仏法を最も聞きやすい世界なんです。

人間は争う時もありますが、そればっかりではありません。

人間は楽しい時もありますが、そればっかりではありません。

そして、そのこと以上に大事なことがあります。それは、

 ・人間は「罪」を知ることが出来る(罪悪観)

 ・人間は「死」を知ることが出来る(無常観)

この二つのことができるということなんです。この意味で、人間はとても尊い存在なんです。

そして、仏法はこれら「罪」と「死」という二つの大きな問題を解決するための教えなんです。それは、人間の根本的な問題の解決であり、

「なぜ、人間として生まれてきたのか」

「なんのために、私は生きているのか」

「死んだらどうなるのか」
という問いに真正面から向き合い、解決するための教えなんです。

 

仏教は、今から約2,500年前のインドにお生まれになった一人の王子(お釈迦さま)が、このような人間の根本的な問いに気づかれ、それを解決するために修行され、ついにその問題を完全に解決されて、仏さまに成られて説いて下さった教えなんです。

そして仏教は、前回の繰り返しになりますが、仏さまが説かれた教えであり、仏さまに成るための教えであります。したがって、「仏さまの教えを聞く」というところで、仏教では「人間に生まれてきた意味」というのを観ているんです。

 

今回は、仏教の世界観2ということで、仏教の上での「人間に生まれた意味」について述べてきました。今後の日記では、今回ちらっと出てきた仏教の上での「罪悪観」「無常観」についても書いてみたいと思っています。