25歳の僕の歩み

このブログは、私が25歳の時にmixiに書いた日記を改めて読み返し、多少加筆訂正したものです。ご一読頂ければ幸いです。 南無阿弥陀仏

児童相談所での学び1 –虐待に学ぶ親と子、そして私-

2011, 5, 13

 

今回は、僕がまだ高知工科大学にいた時に、児童相談所一時保護所の非常勤職員として働かせていただいてきたことからの学びについて、書いてみたいと思います。

 

まずは、児童相談所の説明から。児童相談所は、虐待や非行、登校拒否、また軽度の障害をもつ子どもたちなど、様々な事情を抱えた子どもたちについての相談に応じるところで、そこに一時保護所という施設があります。

一時保護所とは、名前の通り、様々な事情を抱えた子どもたちを一時的に保護する施設のことです。僕は、そこの非常勤職員として約2年間勤務していました。

やっていた内容は、主に子どもとの生活です。泊りがけで、一緒に遊び、一緒に食事をし、一緒に風呂に入るなどなど。また、時には相談にのったり、勉強をみたり。そして、時には毅然とした態度で指導する。

僕は児童相談所で、そのような仕事をしていました。

 

それでは、その児童相談所で働かせていただいたことからの気づきの一つを書いてみようと思います。(ただし、一つと言いっても、その一つの気づきから、連動的に他の気づきも起こってきているので、ここでは、最初の一つの気づきをテーマに、それにまつわる他の気づきにもふれていこうと思います)

 

それは、虐待を受けている子どもたちが、こんなにも多くいるという現実への気づきです。

 

児童相談所で働かせてもらうようになるまで、実は僕は、「虐待というのはテレビのニュースやドラマの中でよくある話」といった程度の感覚しかありませんでした。

ところが児童相談所で実際に働らいていく中で、その感覚が、大きな間違いであったことに気づきました。というよりも、否が応でも気づかされました。「こんなにも、虐待を受けている子どもたちはいるものなのか!?」その気づきは、僕の中に大きな衝撃を与えました。

 

しかし、もっと驚いたのは、その虐待を受けた子どもたちの相(すがた)でした。虐待を受けた子どもたちと、実際に児童相談所で共に生活をする中で感じたことは、「みんな、なんていい子なんだ!?」ということでした。もちろん、いろんな性格の子どもたちがいるわけですが、共に生活をする中で、一人一人の輝くようないいところが観えてくるんです。

一見、とても対応するのが難しそうな子どもであっても、必ず一つはいいところが観えるんです。しかもそれは、その子どものいいところをわざわざ探そうとしていなくても、生活の中で、自然と現れてくることなんです。

当たり前のことのように思われるかもしれませんが、このことは、僕にとっては、とても不思議なことでした。そして同時に、とてもうれしいことでした。

 

どんな子どもも、必ずいいところがある。

 

この気づきへの信頼が、僕の子どもに対する態度の根底を支えています。

 

だけど、そのことで、僕はある強い負の感情に囚われていきました。それは、虐待を受けた子どもの親に対する激しい「怒り」です。

こんなにいい子を虐待するとは、なんて親だ!!

こんな無責任な親がいるから、虐待なんていう、あまりにも悲しい出来事が 起こるんだ!!

僕は最初、虐待の原因は全て、子どもを虐待をした親にあるんだと思っていました。

けれども、それは違っていたんです。実は、虐待をした親自身が、虐待を受けて育ってきた可能性があるんです。親は、自分が育ってきたように子を育てる。自分がされてきたことと同じことを、自分の子どもに対してする。

もちろん、これはケースによって様々に異なることです。だけど、このようなことが実際に起こっているのも事実です。

 

僕は、このことを知り、恐ろしくなりました。それは、虐待という悲しい出来事が、親から子へと引き継がれてしまい、虐待が連鎖的に起こってしまうと思ったからです。

 

なんて悲しい連鎖なんだろう…。

 

だけど、この思いは、僕が子どもたちへの対応の仕方について真剣に考えるための原動力の一つとなっています。そして、その対応の仕方についても、児童相談所での経験を通して、多くのことを学びました。そのことについては、また別の日記で詳しく丁寧に書いていきたいと思います。

また、その学びと関連させながら、「学校教育」についても、僕なりの考えを書いていけたらと考えています。

 

ここで終ってもいいのですが、実は今、僕は浄土真宗の教えに出遇い、もう一歩深いところで、この虐待という問題を観れるようになっている感じがします。そこのところを最後に書いておきたいと思います。

 

虐待をする親、そして虐待をされる子ども。実はそれは、僕自身の相(すがた)なんです。

今はこうして、優しい両親に恵まれ、何の不自由もなく学生生活を送らせていただいてきているわけですが、そんな僕でも、縁(えん)によっては、何をしでかすかわからない存在なんです。

例えば、恐ろしい話ですが、もし目の前で大切な家族が殺されてしまうような縁にあえば、おそらく僕は、気が狂ったように泣き叫び、怒りのままに殺した相手を、僕が殺すことになるかもしれません。

そうならずに、今こうして平然と暮らしていけているのは、「たまたま」そのような縁にあわずにすんでいるからにすぎないんです。

 

また、縁も恐ろしいですが、その縁にふれることで爆発するように起こる感情。その感情の元となる「種」が、僕の心の中にはあるんです。そのことを思わせていただくとき、子どもを虐待する親も、僕の相だし、また虐待される子どもも、僕の相となるんです。

そうした時に初めて、この虐待ということが、僕に深く関係する、僕自身の問題であるということが明らかになりました。

これが、僕の今の感じているところです。

 

これを読まれて、もしかしたら、ものすごいネガティブ(後ろ向き、あるいは暗い)な考え方だなぁと思われた方があるかもしれません。

だけど、実は今の僕は、このようなことを知らせていただいたことは、本当にありがたく、もったいないことだなぁと思っています。また、そんな自分に「阿弥陀仏の願い」がかけられていたということを思うと、いきいきとした喜びが、心の底からふつふつとわいてきます。だから、僕にとって、この考え方は、全くネガティブではないんです。

また、ここのところは、今後の日記の中で、浄土真宗の教えについて紹介させてもらう時に、丁寧にふれていきたいと思います。