25歳の僕の歩み

このブログは、私が25歳の時にmixiに書いた日記を改めて読み返し、多少加筆訂正したものです。ご一読頂ければ幸いです。 南無阿弥陀仏

仏教の罪悪観 -仏さまの「ものさし」-

2011, 5, 26

 

今回は「仏教の罪悪観」と題して、仏教の中で説かれている「罪悪(ざいあく)の観方(みかた)」について書いていこうと思います。

 

書いていくんですが、その前に、この日記は、仏教の教えや考え方を読み手の方に押し付けるのが目的ではありません。ただ、僕自身が今喜ばせていただいている仏教、僕の場合は浄土真宗になりますが、そこのところをぜひ紹介したいなぁという思いで書いています。ですので、ご自身のペースでのんびりと読んでいただければ幸いです。

 

さてさて、それでは内容に入っていきますが、まずはじめに注意が必要なのは、これから話すのは「罪悪感」ではなく「罪悪観」だということです。つまり、罪悪を「感じる」のではなく、罪悪を「観る」ということです。仏さまの教えを通して、罪悪とは何かということを観ていく。これが「罪悪観」です。

そして、仏教の上でいう「罪悪」は、実は僕たちが普段の生活の中で感じたり考えたりしている「罪悪」とは違うところもたくさんあります。この点にも着目しながら読んでいただけると、なかなかおもしろいんじゃないかと思います。

また、自分自身に引き寄せてみながら読んでいただけると、ぐっと内容が深まってくると思います。

 

それでは、本題に入ります。

まず、仏教における「罪悪」は、大きく三つに別けられます。それは、

 ・身(しん:身体の行い)

 ・口(く:口の行い)

 ・意(い:心の行い)

の三つです。

そして、その罪悪にはいろいろな説かれ方があるのですが、今回はその中の一つ、十悪(じゅうあく)について紹介します。十悪は、その名前の通り、十個の罪悪のことです。それでは、順番にみていきたいと思います。

 

まず一つ目は殺生(せっしょう)。殺すことです。殺人というと、恐ろしいけどわかりやすいかもしれませんね。だけど、仏教で説かれる殺生の罪は、人を殺すことだけではありません。仏教では、全ての命を平等に観ていきます。つまり、人の命も、犬や猫の命も、鳥や魚の命も、虫の命もみんな等しく、同じ一つ一つの尊い命であると観ていきます。ですから、蚊を一匹殺すことは、人を一人殺すことと同義であるというのです。

 

二つ目は偸盗(ちゅうとう)。これは盗みの罪。

 

三つ目は邪淫(じゃいん)。これは浮気や不倫など、邪まなエッチなことをする罪。

ここまでの三つが身業(しんごう)といって、身体で行う罪悪です。

 

では続いて、四つ目は妄語(もうご)。これは嘘をつく罪。「嘘も方便」という言葉がありますが、あの言葉は、「方便」という言葉の本来の意味を考えるのならば、間違っていると僕は考えています。「方便」は元々は仏教用語で、「仏さまの正しい教えに導くための仮の手だて」のことをいいます。そして、嘘とは正しくない事、また相手をだます行為の事を指していると思います。そのため、「嘘」と「方便」は、本来、本質的に異なる言葉です。そのことが曲解されてしまい、時として「嘘も方便」は、嘘をついたときのいいわけにもなってしまっているのではないかと思います。

 

五つ目は綺語(きご)。これは飾り言葉のこと。自分が思ってもいない事を言うこと。お世辞とかがこれにあたると思います。

 

六つ目は悪口(あっく)。これは荒い言葉。相手を罵倒したりするときに出てくる言葉の罪。

 

七つ目は両舌(りょうぜつ)。これは二枚舌のこと。あっちではこう言い、こっちではああ言う。

ここまでの四つが口業(くごう)といって、口で行う罪悪です。

 

では続いて、八つ目は貪欲(とんよく)。これは貪り。あれが欲しい、これが欲しいと貪る心。そして、欲しいものを手に入れて満足するのかというと、そうではない。また、次を求めてどこまでも貪り続けていく。人間の欲望には、限りがありませんね。

 

九つ目が瞋恚(しんに)。これははらだち。怒りや憎しみ、恨みの心。

 

最後が邪見(じゃけん)。これはよこしまな見方。つまり、間違った考えのこと。何に間違った考えかというと、それは仏さまの教えに対して、間違った考えという意味です。また、邪見は愚痴(ぐち)ともいい、智慧(ちえ)がないことをいいます。「ぐちをこぼす」とか、「いつまでもぐちぐちいう」とかで使う愚痴は、元々は仏教用語なんです。

そして、この三つのことを意業(いごう)といい、心で行う罪悪のことです。

 

仏教は、法(仏さまの教え)を鏡として自己を見つめる教えです。つまり、教えに照らし合わせて、自分自身の相(すがた)を観ていくということです。

そのため、今紹介してきた十悪は、仏さまの「ものさし」なんです。仏さまの目から見たら、どういうふうに見えるのか。十悪は、それを測るための「ものさし」の一つなんです。

 

さて、その十悪なんですが、これにはまだ大事な特徴があります。それは、罪悪の重さについてです。

十悪には、身業、口業、意業の三種類があるということは、すでにお話してきました。そして、その中でも仏教では意業(心で行う罪悪)に最もおもきをおきます。それは、全ての罪悪は、心の罪悪に原因があるからです。仏教では、そこに全ての苦しみの原因があると観ていく教えです。

例えば、恐いケースですが、殺人のことを考えてみると、初めから何にも考えずに人を殺すことはほぼないと思います。「あいつムカつくなぁ」「あいつが憎い」「なんだかむしゃくしゃする」あるいは、「殺人ってどんな感じなんだろう」というような思いもでてくるかもしれません。その思い、一つ一つを種に喩えます。そして、そのような種がだんだんと心の奥底に積み重なり、縁にふれてその種が芽を出し、そして花開くことで殺人という行為が生じる。仏教では、そのように観ていきます。

つまり、その行為の根本には、「思い」という「心の種」があるのです。

そして、もっと突き詰めていうならば、仏教では、

「憎いと思ったら、相手を殺そうとする恐ろしい心の種ができた」

「欲しいと思ったら、それを盗もう(我が物にしよう)とする卑しい心の種が できた」

このように自分自身の相(すがた)を観ていきます。

ただし、ここで注意が必要なのは、最初にもお話ししたように、これは「罪悪観」であって、「罪悪感」ではないということです。罪悪を感じさせて恐がらせたり、自分自身を追い詰めたりすることが目的ではありません。

「罪悪観」とは自分自身の相が、仏さまの目から観たらどのように観えるのかということを知り、その事を通して、深く自己について考えていくためのものです。

 

また、もう一つだけ付け加えておくならば、十悪の中で最も重い罪悪は、「邪見」だということです。これは、正しいことが見えない罪。この罪が、私たちが迷う全ての原因。正しいことを観ることができないから、どこまでもどこまでも貪り、怒り、そして苦しみ続ける。自分自身が迷い苦しんでいるということがわからないというのが、邪見です。

そして、「邪見」の反対は「正見(しょうけん)」。正しい見方。それは「仏さまの見方」のことです。また、正しいこととは、仏さまの教えの事。だから、邪見は「仏さまの教えを疑う罪」のことなんです。

このようなところを問題にして、それを解決していくための教えが、仏教です。

 

さて、今回は「仏教の罪悪観」と題して、その罪悪観の内の一つ、「十悪」について紹介していきました。そして、その十悪は、仏さまの「ものさし」であるということをお話してきました。

また、回を改めて、今度は「仏教の無常観」について紹介しようと思っています。