25歳の僕の歩み

このブログは、私が25歳の時にmixiに書いた日記を改めて読み返し、多少加筆訂正したものです。ご一読頂ければ幸いです。 南無阿弥陀仏

夜回り先生からの学び -「まつ教育」、そしてカウンセリングに学ぶ「子どもとの関係づくり」-

2011, 7, 8

 

今回は、夜回り先生こと、水谷修先生から僕が学んだことの一つ、「まつ教育」について書いてみようと思います。

そして、カウンセリングに学ぶ「子どもとの関係づくり」というのは、この日記を書いている過程で、僕の中で繋がってきたところです。水谷先生からの学びにカウンセリングがあるわけではありません。

またこの日記は、2011/06/11「児童相談所での学び -冷静に起こる-」の続編でもあります。

 

児童相談所で学んだ「怒る」ということ。だけど、その「怒る」をしない水谷先生の教育。僕は水谷先生の教育について学ばせていただき、僕自身の求めてきた理想の教育像というのが、少し観えてきている感じがしています。そこのところを、この日記を通して整理しながら書いていきたいと思います。

 

それでは始めます。

今回は「まつ教育」ということですが、「まつ」は「待つ」ということです。つまり、子どもを待つ教育ということです。

そこのところで、まず水谷先生の言葉を紹介してみたいと思います。

子どもたちのこころの成長には、時間と余裕が必要です。子どもたちにはじっくりと考える時間が、親や大人にはそれを見守る余裕が必要です。

子どもはとても不完全な存在です。子どもは大人の期待を裏切るし、でき なくてあたりまえなのです。

親や大人の考えを強制することなく、どうしたいのかを子どもたちに問いかけ、自ら選ばせる。時間がかかる、子どもが失敗するとわかっていても、とにかくやらせるのです。大人から見たら多少は危険なことだとわかっていても、子どもが自分で決めたのなら、やらせてみて、親や大人はそれを黙って見守っている。その代わりに、失敗してしまったら、その結果に自分で責任をとらせ、きちんと後始末つける方法を考えさせるのです。

これを繰り返さない限り、自分でものを考え、ものを決定し、その行動に責任をもち、成し遂げるという、私たち大人が社会であたりまえに求められている能力、この考える力は身につかないのではないでしょうか。

しかし、残念なことにいまの親や大人たちはそれをしていません。親や大人たちにゆとりがなさすぎるのです。子どもたちが一歩踏み出すことをサポートできている親が、いったいどれだけいるのでしょうか。

いまの日本の子育てや教育には、これが欠けています。

(『あした笑顔になあれ 夜回り先生の子育て論』、p.103,104)

こころの成長には、時間と余裕が必要。一見当たり前の様ですが、とてもないがしろされてきていることなんではないかと、僕は思います。黙って見守る。これは、無関心に放っておくということとはまったく違います。こちらからの要望やアドバイスを押し付けていくのではなく、子ども自身の成長を、しっかりと「待つ」。

そして、このことはとても難しいことなんだとも思います。時間的なこともありますが、それよりも、自分の要望やアドバイスを少し横に置いておくということが難しいと、僕は感じています。相手を自分の思い通りにしたい。その思いは、自分にとって大切な人であれば、なおのこと強くでてくる思いです。

「こうしたら、もっと幸せになれるのに!」

「ああしなければ、苦労することになる!」

だけど、そのような自分の思いを少し横に置いておいて、しっかりと子どもの成長を「まつ」。子どもが、「子ども自身の力」で成長するのを「まつ」のです。

 

そして、この「まつ教育」の実現には、カウンセリングから学んだ関係づくりが力強くサポートしてくれると、僕は考えています。

まず、子どもの話をしっかりと「聴く」。子ども考えることだからと上から目線で馬鹿にするのではなく、その子がどのようなことを言いたいのか、考えているのかを、しっかりと「聴く」。

そして、時にはそれをサポートする。以前の日記でも書いてきましたが、形の無い心の中の思いを、形の有る言葉にする作業は、とても難しいことです。例えば、

「きみはさっきこのように話してくれたけど、それは、こういうことが言いたかったのかな?」

と話の内容をある程度整理して伝え、それであっているかどうか聞いてみる。(しっかりと子どもに確認をとることが大切です。)これも、「話を聴く」ことの一環です。

そして、話を聴くときは、「子どもの気持ち」と「私の気持ち」をきっちりと別けて聴く。このことも、とても大切です。「子どもの気持ち」なのか、「ああしてほしい。」「こうなってほしくない。」という「私の気持ち」なのか、そこのところはきちんと別けて聴く必要があります。そしてこれは、できているようで案外できているつもりになっている場合が結構ありますので、よくよく注意すべきことだと、僕は思います。

「きみの考えていることを、聞かせてもらいたいなぁ。」という気持ちが伝われば、子どもは素直にそれに応えてくれます。そしてそこで、子どもは自ら「気づき」を起こしていくし、聞いているこちら側も、子どもの本当の思いに「気づく」のです。それに、うれしそうにいきいきと輝いた笑顔で話してくれる子どもの姿は、とても素敵です。

そして、その上で伝えたいことがあるのなら、決めつけたり、抑えつけたりするような「あなたメッセージ」ではなく、「私メッセージ」でやさしく丁寧に伝える。このようなメッセージが、子どもの心に本当に染み込んでいくのではないかと思います。

逆に、怒りや恐怖で伝えたメッセージは、子どもの反発や委縮を生んでしまったり、もし聞いていたとしても、たいがいはその場しのぎになってしまい、きちんとこちらのメッセージが伝わることは、ほとんどないと、僕は思います。むしろ、メッセージが歪んだ形で伝わってしまい、本来伝えたかったことと真反対のことが伝わってしまうこともあります。

このような子どもとの関係作りが、「まつ教育」を実現させていくのではないかと、僕は考えています。

 

また、このような「まつ教育」を実現させるには、「待つ」側に心の余裕が必要です。心がいっぱいいっぱいの時には、なかなか相手を「待つ」ということはできません。水谷先生がおっしゃられるように、親や大人たちにゆとりがなさすぎるという現状があると思います。

だけど、これまで書いてきたようなカウンセリングに学ぶ「子どもとの関係づくり」が、日常生活の中に心のゆとりをもたらしてくれるのではないかと、僕は考えています。そして、このような関係づくりは、なにも子どもとの間に限った事ではありません。家族や友達、それ以外にも自分の周りにいる人たちとの間でできる、素敵な関係づくりだと思います。だから、「いま・ここ」の僕にできるところで、「まつ」ということを実践していきたいと思います。そして、「まつ教育」こそが、今の僕にとっての「怒らない教育」、そしてそれは、「怒る必要がない教育」です。

 

また、僕はカウンセリングの学びを通して、「僕にできること」と「できないこと」の線引きをしてもらったと感じています。そこのところは、改めて別の日記でふれていきたいところなんですが、それを元に考えると、「まつ教育」こそ、「僕にできる教育」だと今は感じています。そしてそれは、「僕が理想とする教育」でもあります。まだまだ経験不足ですが、今の僕は、そのように思っています。

 

さて、それでは最後に、水谷先生の言葉を紹介して終わりたいと思います。

 

教育というのは、本来、根のないところや種がないところで、無理やり伸ばそうとすることではありません。その子が自ら自分の可能性はどこにあるのか、自分の明日への種はどこにあるのか、それに気づくまで待つことです。そしてその子が気づいてくれたら、まわりの人とのいい出会い、いい本との出会い、いい授業などといった栄養分をゆっくりゆっくり与えてあげる。子どもたち自らがそれを伸ばし、花咲かせることを助けることが教育なのです。

(『あした笑顔になあれ 夜回り先生の子育て論』、p.102,103)

 

 ☆☆参考文献☆☆

水谷修、『あした笑顔になあれ 夜回り先生の子育て論』、日本評論社、2006年6月15日。

 

カウンセリングの体験的学び -ミニカウンセリング-

2011, 7, 4

 

今回は「カウンセリングの体験的学び」ということで、その方法の一つ、「ミニカウンセリング」について 書いてみたいと思います。また、今回紹介するミニカウンセリングは、今まで書いてきたカウンセリング関係の日記の「応用編」、もしくは「実践編」ということになると思います。

 

僕は主に、「真宗カウンセリング研究会」が開催している「ミニカウンセリング研修会」の中で、ミニカウンセリングについて学んでいます。

ミニカウンセリングのいいところをいくつかあげてみると、

  •  カウンセリングを体験的に学ぶことができる。
  • 少人数でできる。(2人以上で可能)
  • 時間が短いので、集中してできる。
  • 時間が短いので、気楽に安心してできる。

というところがあります。また、ミニカウンセリングは短時間でできるということもあり、聞き手(カウンセラー)と話し手(クライエント)の役割交代をすることで、どちらも体験することが出来ます。

 

そして、ミニカウンセリングを経験してみて、僕が今感じることは、カウンセリングをする上で、「カウンセラー」と「クライエント」、どちらの体験もとても大切だということです。

「クライエント役」をすることで、どのように話を聴いてもらいたいのかということや、話を聴いてもらうことの喜びを体感することができ、それはそのまま、カウンセラーをするときの話の聴き方に生きてきます。

「カウンセラー役」をすることで、カウンセラーがどのような気持ちで話を聴いているのかということや、様々なクライエントの気づきの体験を間近で体感することができ、それはそのまま、クライエントをするときの話しやすさ、話し方に繋がってきます。

このように、カウンセラー役とクライエント役の体験は、お互いを補い合い、深めあうような体験でもあるのです。

 

さて、ではそれぞれの役から学べることを、もう少し詳しく紹介してみたいと思います。ミニカウンセリングを通した僕の学びを簡単に列挙してみると、まず「カウンセラーの体験」では、

  •  実践的な話しの聴き方の体験。
  • クライエントに気づきが起きる姿を体感。
  • 相手が本当に言いたかったことを理解する体験。
  • 話を聞くことの難しさ、そして大切さの体感。
  • 沈黙を待つことの難しさを体感。

ということがありました。

次に「クライエントの体験」では、

  • 自分の思いに寄りそっていただける心地よさの体験。
  • 自分の思っていることを安心して話せる心地よさの体験。
  • 自分自身の思いを言葉にすることの難しさの体感。
  • その難しさに寄りそっていただけることの心強さ、有り難さの体感。
  • 話すことで、自分自身に対する気づきが起こるという体験。
  • 話すことで、自分自身の心の整理ができる体験。
  • 話すことで、心が軽く、柔らかくなっていく体感。

ということがありました。

 

さてさて、それではミニカウンセリングについての具体的な説明に入ります。ただ、ミニカウンセリングと一口に言っても、いろいろとやり方があるようです。ですので、今回はその一例として、僕が体験しているところで紹介していきたいと思います。

まず、ミニカウンセリングの流れを簡単に書いてみます。

 

  1. ペアを組み、カウンセラー役とクライエント役を決めます。
  2. 準備が出来たら、カウンセリングを始めます。(8~15分)(初めは短めに設定しておいて、慣れてきたら少しずつ長くしていくというのがいいと思います。)

    カウンセリングでは、まずカウンセラーが、

    「今から○○分の間は、☆☆さんのお時間です。」

    「今、思っていることや感じている事をなんでもご自由にお話しください。」

    「秘密は守ります。」

    ということをクライエントに伝えます。

    そして、クライエントは今の思い、悩んでいることや喜んでいることなどを話し始めます(無理に話す必要はなく、話したいことを思いついたら話すというので大丈夫です。ですので、沈黙になっても何も問題はありません)。

  3. 時間になると、カウンセリングを直ちに終えます。時間になったらすぐに終わる。このことが、とても大切です。まだ話したくても、一端そこできちんと終わるようにします。(時間を計るのには、キッチンタイマー等を使うと便利です。)
  4. カウンセラーの振り返りの時間を2分とります。この時間は、聴かせてもらった話しの内容や気持ちの整理、話を聴いてみて感じたことなどを話します。
    このとき、カウンセラーは「私メッセージ」を意識して、
    「私は、あなたの話をこのように聴かせていただきました。」
    「私は、あなたの話を聴いて、このように感じました。」
    というような形で話すように心がけます。(「私メッセージ」は、2011/06/18「あなたメッセージと私メッセージ」で詳しく紹介しているので、よかったら参照してみてください。)

  5. 最後に、クライエントの振り返りの時間を2分とります。この時間では、話を聴いてもらって感じたことや、2分間のカウンセラーからの話を聞いてみて感じたことなどを話します。ここでも、「私メッセージ」を心がけます。

 

以上でミニカウンセリングの1回の実践はお終いです。この後は、カウンセラー役とクライエント役を交代してもう一度実践をしたり、ミニカウンセリングの体験を通したお互いの気持ちの分かち合いをするのもいいと思います。

 

さて、ではカウンセリングの時の話の聴き方について、少し書いてみたいと思います。

カウンセラーはクライエントに寄りそいながら話を聴いていきます。このときカウンセラーは、クライエントの言葉やしぐさ、表情などの中に流れている「いま・ここ」のクライエントの「感情」に耳を傾けながら、話を聴いていきます。(相手の「感情」に耳を傾けるということについては、2011/05/09「いま・ここで相手に流れる感情」の日記の中でふれていますので、よかったら参照してみてください。)

そこで最も大切になってくるのが、カウンセラーの「態度」です。カウンセラー側のクライエントの話にしっかりと寄りそおうとする態度。この態度が、とても大切です。そして、そのような「態度」を実践するのは本来とても難しいことですが、時間の短いミニカウンセリングならば、比較的実践し易いと思います。(カウンセラーの「態度」については、2011/05/19「優しさと尊敬の態度」の日記の中で詳しくふれていますので、よかったら参照してみてください。)

 

そして、その「態度」の部分が大切であるということを前提とした上で、ミニカウンセリングにおける具体的な話しの聴き方について、「技術」的な部分をいくつか紹介したいと思います。

 

Step 1 相槌をうつ

まずは相槌(あいづち)。初めての方の実践では、カウンセラーは相槌だけでもいいと思います。クライエントの話にしっかりと寄り添いながら、しっかり相槌をうつ。

相槌の言葉ですが、「わかるわかる。」や「そうだね。」などは、カウンセラーがクライエントの気持ちに同調したり、判断を下すようなニュアンスがあるので、「うん」とか「はい」などのシンプルなものがおススメです。これは、「自分の気持ち」と「相手の気持ち」をきちんと別けて話を聴くということに繋がってくることです。(このことについては、2011/06/01「自分の気持ちと相手の気持ち」の日記で詳しく紹介していますので、よかったら参照してみてください。)

  

Step 2 相手の沈黙を待つ

沈黙になった時に、こちらから話しかけるのではなく、しっかりと相手の動きを待つ。沈黙も大切な時間です。

自分自身の心に向き合うことや、形の無い心の中の思いを、形の有る言葉にすることは、とても難しいことです。そこに沈黙が伴うのは、むしろ当然なことだと、今の僕は思っています。

クライエントが安心して沈黙することが出来る。話をしていようと、黙っていようと、そのカウンセリングの時間は、クライエントの時間。クライエントが自由に過ごしていい時間。そのことを尊重し、沈黙の中での相手の心の動きに、そっと耳を傾けるように意識することが大切です。

 

Step 3 つぶやき

「つぶやき」とは、クライエントの話しの中から、大切だなと思われる言葉を、そのままつぶやくように、オウム返しすることです。

特に「感情」を表しているような言葉、「うれしい」「楽しい」「疲れた」「怖い」「悲しい」など、クライエントの感情を表す言葉を返すことが大切です。そのことで、クライエントにその感情に対する気づきが起こる場合があります。

また、適切なつぶやきを入れることで、しっかりとカウンセラーが自分の気持ちに寄り添いながら、話についてきてくれているという感じが伝わります。

 

Step 4 レスポンス(応答)

クライエントの話がひと段落ついたときに、自分が聴かせてもらったところをレスポンスする。

レスポンスの形としては、例えば、

「今、あなたのおっしゃりたいのは、こういうことですね。」

「今、あなたはこういう気持ちなんですね。」

というふうに返していきます。

またレスポンスの言葉は、できるだけクライエントが使っていたのと同じ言葉や表現を使うと、より相手の話したかったことや、気持ちを正確に返しやすくなります。

レスポンスの内容があっていれば、

「そうそう。」

「そうなんですよ。」

というような反応が返ってきます。

また、もしもレスポンスの内容がクライエントの話と異なっているようなら、

「うーん、なんか違う感じがするなぁ。」

「いやいや、私が言いたかったのはそういうことじゃないんですよ。」

というような反応が返ってくることもあります。でも、だからといって焦る必要はありません。その時は、また改めてクライエントの話に耳を傾けていくようにすれば大丈夫です。

ただし、レスポンスをするのはあくまでクライエントの話がひと段落ついたときです。クライエントの話が続いているようであれば、話の流れを止めてまで、無理にレスポンスをする必要はありません。

 

以上のようなことを心がけながら、カウンセラーはクライエントの気持ちに寄りそいながら、話を聴いていきます。

 

ミニカウンセリングは、同じ志しがある仲間が二人そろうだけで、簡単に実践することが出来るカウンセリングです。ですので、カウンセリングに興味・関心のある方にはとてもおススメです。

また、カウンセリングという言葉を使わなくても、「人の話を聴く」ということに興味・関心がある方には、ミニカウンセリングはとてもいい経験になると思います。それは、「人の話を聴く」ということには、体験的な学びが、とても大切だからです。(もちろん、学問的な学びもとても大切です。)

 

さてさて、長くなりましたが、今回は「カウンセリングの体験的学び」ということで、「ミニカウンセリング」について、僕が今学んでいるところで書いてきました。

また折をみて、カウンセリングから学んできたこと、そして今も学んでいることを、紹介していきたいと思っています。

阿弥陀という仏さま3 -法蔵さまの修行、そして「南無阿弥陀仏」の名のり-

2011, 7, 1

 

さて、今回も前回の続きです。そして、「阿弥陀という仏さま」は、今回でいったん一区切りにしたいと思います。

 

 

 

それでは早速、『仏説無量寿経』をもとにした阿弥陀さまの物語の続きに入っていきたいと思います。

 

法蔵さまは、四十八願を述べおわってから、重ねてその願いの要旨を説いた唄をうたわれました。(この唄のことを「重誓偈(じゅうせいげ)」といいます。)

法蔵さまがうたい終わられると、そのとき大地はさまざまに打ち震え、天人は美しい花をその上に降らせました。そしてうるわしい音楽が流れ、空中に声が聞こえ、

「必ずこの上ないさとりを開くであろう。」

と法蔵さまをほめたたえました。ここに法蔵さまはこのような大いなる願をすべて身にそなえ、その心はまことにして偽りなく、世に超えすぐれて深くさとりを願い求めたのでした。

そしてこの願をたておわって、国土をうるわしくととのえることにひたすら励まれました。その国土は限りなく広大で、何ものも及ぶことなくすぐれ、永遠の世界であって衰えることも変わることもありませんでした。このため、はかり知ることのできない長い年月をかけて、限りない修行に励み、功徳を積んだのでした。

貪りの心や怒りの心や害を与えようとする心を起こさず、また、そういう想いを持ってさえおられませんでした。すべてのものに執着せず、どのようなことにも耐え忍ぶ力をそなえて、数多くの苦をものともせず、欲は少なく足ることを知って、貪り・怒り・愚かさを離れておられました。そしていつも精神統一の境地に心を落ちつけて、何ものにもさまたげられない智慧を持ち、偽りの心やこびへつらう心はまったくありませんでした。表情はやわらかく、言葉はやさしく、相手の心を汲み取ってよく受け入れ、雄々しく努め励んで少しもおこたることがありませんでした。ひたすら清らかな善いことを求めて、すべての人々に利益を与え、仏さまと、仏さまの教え、そしてその教えのままに修行をする僧侶を敬い、師や年長のものに仕えられました。その功徳と智慧のもとにさまざまな修行をして、すべての人々に功徳を与えられました。

また自分を害し、他の人を害し、そしてその両方を害するような悪い言葉を避けて、自分のためになり、他の人のためになり、そしてその両方のためになる善い言葉を用いられました。国を捨て王位を捨て、財宝や妻子などをもすべて捨て去って、すすんで修行し、他の人にもこれを修行させました。このようにしてはかり知れない長い年月の間、功徳を積み重ねられたのでした。

そして、法蔵さまはすでに阿弥陀という仏さまとなっておられ、さとりを開かれてから、およそ十劫の時が経っています。(「劫」については、前回の日記で解説をしていますので、よかったら参照してください。)

阿弥陀さまの国土は七つの宝でできており、実にひろびろとして限りがありません。そしてそれらの宝は、互いに入りまじってまばゆく光り輝き、たいへん美しく、そのうるわしく清らかなようすは、すべての世界に超えすぐれています。

また、地獄や餓鬼や畜生などのさまざまな苦しみの世界もなく、春夏秋冬の四季の別もありません。いつも寒からず暑からず、調和のとれた快い世界です。(地獄、餓鬼、畜生については、2011/05/11「三世と六道」の日記で詳しく紹介しているので、よかったら参照してみてください。)

 

 

すべての世界の数限りない仏がたは、みな同じく阿弥陀さまのはかり知ることのできないすぐれた功徳を ほめたたえておいでになります。すべての人々は、阿弥陀さまの名号(みょうごう)のおいわれを聞いて 信じ喜ぶ心がおこるとき、それは阿弥陀さまがまことの心をもってお与えになったものであるから、阿弥陀さまの国に生まれたいと願うたちどころに往生(おうじょう:阿弥陀さまの国に生まれること)する身に定まるのです。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。

 以上で阿弥陀さまの物語はお終いです。

 

さて、最後に「南無阿弥陀仏」について、少しお話ししておこうと思います。(「南無阿弥陀仏」の読み方には、いろんなものがあります。例えば、「なむあみだぶつ」とか「なんまんだぶ」とか「なんまんだー」などがあります。)

法蔵さまの願いの中で出てきた「私の名前」や、阿弥陀さまの「名号」というのは、実はこの「南無阿弥陀仏」のことなのです。「南無」とは、元々インドの「ナマス」という言葉で、「心から信じ敬う」という意味です。また、浄土真宗の開祖とされる親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、「仰せにしたがう」とも解釈されています。

つまり、「南無阿弥陀仏」とは、

阿弥陀さまを心から信じ敬う。」

もしくは、

阿弥陀さまの仰せにしたがう。」

という意味になります。

そして、その南無阿弥陀仏の「おいわれ」を聞くというのは、仏願の生起本末を聞く、ということです。

仏願の生起とは、「どうして法蔵さまが願いを起こして修行をされて、阿弥陀さまとなられて「南無阿弥陀仏」をおつくりになられたのか。」ということです。

仏願の本末とは「おつくりになられた「南無阿弥陀仏」のお救いというのは、いったいどんなものなのか。」ということです。

仏願の生起と本末、この二つを聞くことこそ、浄土真宗の教えの本質であり、浄土真宗の教えはすべて、そのことをこの私が聞き開くために説かれた教えです。

 

さて、三回にわたって「阿弥陀という仏さま」について書いてきました。長い日記になりましたが、最後まで読んでいただいた方、ありがとうございます。

また回を改めて、浄土真宗の教えについて、僕が聞かせていただいているところで書いていきたいと思います。

 

☆☆参考文献☆☆

浄土真宗聖典 浄土三部経(現代語版)』、本願寺出版社、平成8年3月20日

阿弥陀という仏さま2 -法蔵さまの「願い」と「誓い」-

2011, 6, 29

 

さて、今回は前回の続きです。

 

阿弥陀という仏さま」についての日記ということで、阿弥陀さまが仏さまになられるまでの話を、『仏説無量寿経(大経)』というお経をもとに、物語として引き続き紹介していきたいと思います。

 

世自在王(せじざいおう)さまは、法蔵(ほうぞう)さまの志が実に尊く、とても深く広いものであることをお知りになり、法蔵さまのために、ひろくさまざまな仏がたの国々に住んでいる人々の善悪と、国土の優劣を説き、法蔵さまの願いのままに、それらをすべてまのあたりにお見せになりました。

そのとき法蔵さまは、世自在王さまの教えを聞き、それらの清らかな国土のようすを詳しく拝見して、ここに、この上なくすぐれた願(がん:願い)を起こされました。その心はきわめて静かであり、その志は少しのとらわれもなく、すべての世界の中でこれに及ぶものはありませんでした。そして五劫(ごこう)という極めて長い間、思いをめぐらして、浄土をうるわしくととのえるための清らかな行(ぎょう:修行の方法)を選び取られました。

 

 

さて、ここで「劫(こう)」ということについて、少し解説を加えておきたいと思います。「劫」とは、極めて長い時間の単位のことです。その長さには、いくつかの譬えがありますが、その中の一つに次のようなものがあります。

1辺が40里(中国の換算比で約20km)の巨大な岩を100年に1度、天女が舞い降りて羽衣でサッと撫で、岩がすり切れてなくなってしまうまでの時間。これが一劫の長さです。なんというか、想像することもできないような途方もないくらい長い時間ですね。そして法蔵さまは、五劫という長い間、思いをめぐらされたのでした。

それでは、再び物語へと戻ります。

 

さて法蔵さまは、こうしてさまざまな仏がたが浄土をととのえるために修められた清らかな行を選び取られました。このようにして願と行を選び取りおえて、世自在王さまのおそばへ行き、手を合わせてひざまずき、

「世自在王さま、私はすでに、浄土をうるわしくととのえる清らかな行を選び 取りました。」

と申しあげました。世自在王さまは法蔵さまに対して、

「そなたはその願をここで述べるがよい。今はそれを説くのにちょうどよい時である。すべての人々にそれを聞かせてさとりを求める心を起こさせ、喜びを与えるがよい。それを聞いた修行者たちは、この教えを修行し、それによってはかり知れない大いなる願を満たすことができるであろう。」

と仰せになりました。そこで法蔵さまは、世自在王さまに向かって、

「では、どうぞお聞きください。私の願を詳しく申し述べます。」

といって、四十八(しじゅうはち)の願いを述べていかれました。

 

 

さて、法蔵さまはここから、四十八の願いを一つずつ述べられていくのですが、その全てをあげていくと、とても長くなってしまいますので、今回はその中から五つほど紹介します。

 

まず、第十一番目の願い。

私が仏になるとき、私の国の人々が必ずさとりを得ることがないようなら、私は決してさとりを開きません。

この願いは、全ての人々に必ずさとりを開かせることを誓われた願いです。

 

次に、第十二番目、第十三番目の願い。

私が仏になるとき、光に限りがあって、数限りない仏がたの国々を照らさないようなら、私は決してさとりを開きません。

私が仏になるとき、寿命に限りがあって、はかり知れない遠い未来にでも尽きることがあるようなら、私は決してさとりを開きません。

この二つの願いは、「無限のひかり」と「無限のいのち」をそなえた仏さまになることを誓われた願いです。

 

次に、第十七番目の願い。

私が仏になるとき、すべての世界の数限りない仏がたが、みな私の名前をほめたたえないようなら、私は決してさとりを開きません。

この願いは、ご自身のお名前をすべての仏がたにほめたたえていただくことを誓われた願いです。もちろんこれは、自分の名誉欲を満たすためのものではありません。実は、法蔵さまの願われた「すべての人々を救いたい」という願いを実現させるには、この願いがどうしても必要だったのです。

 

その救いの願い。それが第十八願です。

私が仏になるとき、すべての人々が心から信じて、私の国に生まれたいと願い、わずか十回でも私の名前を称えて、もし生まれることができないようなら、私は決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗る(そしる)ものだけは除かれます。

浄土真宗では、この「第十八願」こそが四十八の願いの中の根本の願いであるとしています。むしろ、四十八の願いは、すべてこの「第十八願」から出たものであるとみていきます。それほどに、この「第十八願」とは重要な願いなのです。また、「第十八願」は四十八願の中の根本の願いということで、「本願(ほんがん)」ともいいます。(ちなみに、自分の得意分野などを「十八番(おはこ)」といったりしますが、おそらくこの第十八願を重視するというところから派生した言葉だと思います。)

 

また、今紹介してきた五つの願いに共通してある言葉。

「私が仏になるとき、~でないようなら、私は決してさとりを開きません。」

ここに、法蔵さまの説かれた四十八願の大きな特徴があります。これは、

「もしこの願いをかなえることができなければ、私は絶対に仏にはなりません。」

と誓っておられるということです。このことは、例えば、もし誰かがお医者さんになるときに、

「もしすべての患者さんを救えないようならば、私は決して医者にはなりません。」

と誓われているようなものです。このように、法蔵さまはご自身のすべてをかけた「誓い」を立ながら、一つひとつの「願い」を説かれたのです。(ちなみに、今回紹介しなかった他の願も、同じ願い方をされています。)

 

さて、では今回はここまでにしておきたいと思います。そして、「阿弥陀という仏さま」は、次回で一区切りにしたいと思います。

 

☆☆参考文献☆☆

浄土真宗聖典 浄土三部経(現代語版)』、本願寺出版社、平成8年3月20日

阿弥陀という仏さま1 -「法蔵」の名のり-

2011, 6, 27

 

今回は、阿弥陀(あみだ)という仏さまについて書いてみたいと思います。

 

まず、仏といっても、いろんな仏さまがおられます。有名なところをいくつかあげてみると、

などがあります。ちなみに、「如来(にょらい)」とは「仏さま」と同じ意味です。ですので、阿弥陀さまのことも、「阿弥陀仏」ともいいますし、「阿弥陀如来」ともいいます。

さて、この他にも数え切れないほどの多くの仏さまがおられるのですが、その中でも、「阿弥陀さま」は、浄土真宗の中で最も重要な仏さまです。むしろ、阿弥陀さまおひとりをよりどころとするのが、浄土真宗です。これはもちろん、他の仏さまを見下しているということではありません。「数多くの仏さまがおられるが、今を生きるこの私が、迷いを超えて、仏となるなめには、阿弥陀さまの教えを聞かせていただく以外に道はなかった。」というのが浄土真宗の立場であり、教えです。

 

さて、では阿弥陀さまとは一体どんな仏さまなのかということに移ります。阿弥陀さまは、「無限のひかり」と「無限のいのち」をそなえた仏さまです。実はこのことは、阿弥陀さまのお名前が示しているんです。阿弥陀とは、元々インドの「アミターバ」と「アミターユス」いう言葉が起源となっています。

 

  • 「アミターバ」とは、無量光(むりょうこう)という意味。つまり、量ることのでき無い光ということ。

 

  • 「アミターユス」とは、無量寿(むりょうじゅ)という意味。つまり、量ることのでき無い寿(いのち)ということ。(ちなみに、「寿」という感じには、「いのちながい」という意味があるそうです。(『新漢語林』))

 

さてさて、ではこのことを踏まえた上で、阿弥陀さまが仏さまになられるまでの話を、『仏説無量寿経(ぶっせつむりょうじゅきょう)』というお経をもとに、物語として紹介していきたいと思います。

 

今よりはかり知ることのできないはるかな昔に、世自在王(せじざいおう)という名前の仏さまが、世にお出ましになりました。(ここでいう「世」とは、私たちの住む地球のことではありません。地球上に現れた仏さまは、お釈迦さまただおひとりです。)

そのときひとりの国王がいました。その国王は、世自在王さまの説かれるお話しを聞いて深く感動し、そこでこの上ないさとりを求める心を起こされ、国も、王位もすべて捨てて、修行者となり、法蔵(ほうぞう)と名のられました。法蔵さまは才能にあふれ、志は固く、世の人に超えすぐれていました。そして法蔵さまは、世自在王さまのおそばへ行って、地にひざまずいて、うやうやしく手を合わせて、世自在王さまのお徳をほめたたえる唄をうたわれました。さらに、唄の中で、法蔵さまご自身の決意も述べられました。(この唄を「讃仏偈(さんぶつげ)」といいます。この唄は、2011/05/03「ReStart」という日記の中で一度登場していますので、よかったら参照してみてください。)

 
 

それは、このような唄でした。

 

☆☆☆讃仏偈☆☆☆

世自在王さまのお顔は気高く輝き、その神々(こうごう)しいお姿は何よりも尊い

その光には、何ものも及ぶことなく太陽や月の光も、宝石の輝きも、その前にはすべて失われ、まるで墨(すみ)のかたまりのようである。

 

愚さ(おろかさ)や、貪り(むさぼり)や、怒りなどあなたさまにはまったくなく、人の世にあって獅子のように雄々しい方であり、はかり知れないすぐれた功徳(くどく)をそなえておいでになる。

その功徳はとても広大であり、智慧(ちえ)もまた深くすぐれ、輝く光のお力は、世界中を震わせる。

 

願わくは、私も仏となり、世自在王さまのように迷いの人々をすべて救い、さとりの世界に至らせたい。

 

私は誓う!

私が仏となるときは、必ずこの願いを果たしとげ、生死(しょうじ)の苦におののくすべての人々に大きな安らぎを与えよう。

 

願わくは、世自在王仏さま、この志をどうか認めてください。それこそ私にとってまことの証(あかし)なのです。

 

私はこのように願(がん)をたて、必ず果しとげないではおきません。

たとえどのような苦難の毒にこの身を沈めても、さとりを求めて耐え忍び、修行に励んで決して悔いることはありません。

 ☆☆☆☆☆☆

 

法蔵さまは、このようにうたい終わってから、世自在王さまに、

「この通りです。世自在王仏さま、私はこの上ないさとりを求める心を起こしました。どうぞ、私のためにひろく教えをお説きください。私はそれにしたがって修行し、様々な仏がたの国のすぐれたところを選び取り、この上なくうるわしい国土を清らかにととのえたいのです。どうぞわたしに、この世で速やかにさとりを開かせ、人々の迷いと苦しみのもとを除かせてください」

と申しあげました。世自在王さまは、法蔵さまの志が実に尊く、とても深く広いものであることをお知りになり、

「たとえばたったひとりで大きな海の水を升(ます)で汲み取ろうとして、果てしない時をかけてそれを続けるなら、ついには底まで汲み干して、海底の珍しい宝を手に入れることができるように、人がまごころをこめて努め励み、さとりを求め続けるなら、必ずその目的を成しとげ、どのような願いでも満たされないことはないであろう。」

と仰せになりました。 ……

  

さてさて、だいぶ長くなってきましたので、今回はこのあたりで終えておこうと思います。この物語の続きは、次回の日記で引き続き紹介していきたいと思います。

 

☆☆参考文献☆☆ 
浄土真宗聖典 浄土三部経(現代語版)』、本願寺出版社、平成8年3月20日

児童相談所での想い出1 -卓球-

2011, 6, 24

 

今回は、僕が児童相談所で勤務していた時の想い出ということで、その中でも「卓球」にまつわる想い出について書いてみたいと思います。

ちなみに、児童相談所関連の日記については、以前に二つ書いています。また、「虐待に学ぶ親と子、そして私」の方には、僕が勤務していた児童相談所についての大まかな紹介もありますので、よかったら参照してみてください。

 

さて、ではまず、僕が児相相談所の一時保護所に初めて一人で勤務した時の話から始めたいと思います。

僕は非常勤の泊りがけの勤務をやっていました。泊まりは正職員の方一名と大学生の非常勤職員が一名という体制で行われていました。最初の一回は、研修ということも兼ねて、先輩の大学生も入って下さり、大学生は二人で勤務します。

そして、その研修も終わり、ついに僕は一人で泊まりをすることになりました。僕はまだ、一時保護所の生活の規則や時間も覚えていませんでした。そんな僕に、それを教えてくれたのは、子ども達でした。(もちろん、職員の方からの説明も十分受けた上での話です。)

「あっ、先生。次は洗濯やで。」

「風呂場はこっちな。」

「あぁ、もうこんな時間。次は勉強やぁ。」

何も分からなくてドギマギしている僕を、逆に子ども達がリードしてくれました。

 

そんな頼りない僕と、子ども達との間の架け橋となってくれたのが、「卓球」でした。スポーツを通じたコミュニケーションというのは、本当にすごいなぁと感じます。何を話そうかとゴチャゴチャ考えて、なかなか話すきっかけがつかめなかった子ども達と、いとも簡単に楽しく打ち解けていくことが出来る。普段、あまり話さないような静かな子でも、一緒にスポーツをやってみると、「あっ!」とか、「うわぁぁっ!?」とか、「やった!!」とか、「ぎゃああ!!」などなど、いきいきとした声を聞かせてくれます。

そしてもう一つ。僕は中学生の時に卓球部だったこともあり、卓球の実力で子どもに負けることは、まずありませんでした。(先輩がいいからという理由で始めた卓球でしたが、ほんといろんなところで役に立ってくれています。)

そのお陰で、僕にライバル意識を燃やして挑戦してくる子や、卓球を教えてほしいと言ってきてくれる子とも、たくさん出会うことができました。

 

そのような出会いの中で、印象に残っているエピソードを一つ、紹介したいと思います。これは、当時中学二年生だった男の子との話。

彼はスポーツマンでした。運動神経抜群で、特にサッカーが上手でした。しかし、卓球は僕にかないません。いくら彼の運動神経がよかろうと、卓球経験者の僕にとって、彼に勝つことは簡単なことでした。だけど、彼は持ち前の運動神経でメキメキと腕をあげていきました。(きっと、僕の的確なアドバイスのお陰もあるはず。)

彼は非行系の理由で入所してきた子でした。そのこともあり、当時一緒に入っていた同じ年代の男の子たちとつるんで、気の弱そうな先生をおちょくるような子でした。

だけど、彼はとても根がまじめな子でもありました。一緒に入っていた同じ年代の男の子たちが退所していくと、彼のまじめな部分がどんどん現れてきました。彼は、他の子ども達の面倒をよくみてくれてました。一緒に遊び、時には注意することもできる子でした。掃除や勉強もまじめにこなし、特に毎日書く日誌は、一日の出来事や自分の思い、反省点などを多い日には、八日分ものスペースを使って、たくさんたくさん書いてくれました。

また、ある職員さんから、

「この間、あの子に卓球のドライブを教えてもらったんですよ。あの子、とっても教え方が上手なんです。」

ということを聞きました。僕は、とてもうれしい気持ちになりました。(そして、彼にドライブを教えたのは僕でした。)

 

彼は、やさしい心の持ち主でした。

ただ、彼は周りに流されやすい子でもありました。(いや、彼が流されやすいのではなく、もしかしたら彼は私生活の中で、流されても仕方のないような状況にいたのかもしれません。)

 

彼は、一度退所してから二カ月もたたないうちに、再び入所してきました。そんな彼と、僕は大学についての話をしたことがあります。彼は、高校進学、そして大学への進学を希望していました。

でも、今の生活態度のままでは、それは実現できない。それは、彼自身、痛感していたことでもありました。周りに流されることなく、自分のやるべきことをやる。それが、彼の中の大きな課題でした。

 

そして、彼の退所がいよいよ近づいてきたある日、僕は彼と、最後の卓球をしました。試合のように得点をつけるのではなく、ただ、お互いの技をひたすらぶつけ合う。彼はここに来て、本当に卓球が上手になりました。この時の卓球は、改めてそのことを実感する時間でした。そして何より、楽しかった。彼との卓球は、僕にとって本当に楽しい時間でした。(そして、きっとそれは彼にとっても…。)

就寝前の反省会の時、僕は彼に言いました。

「きみは本当に卓球が上手になった。ここを出てからは、きみが卓球の楽しさを広めていってほしい。」

彼は、親指をぐっと立てて、笑顔で応えてくれました。そして、彼は児童相談所一時保護所を退所して、新たな場所へと旅立っていきました。

 

以上で、彼とのエピソードはお終いです。

さてさて、今回は児童相談所での想い出ということで、「卓球」に関する話を書かせていただきました。また折にふれて、いくつか僕の想い出を紹介していきたいなぁと思っています。

仏教の世界観3 -因果の道理-

2011, 6, 21

 

今回は仏教の世界観その三ということで、「因果の道理(いんがのどうり)」について書いてみたいと思います。

書いていくんですが、その前に、この日記は、仏教の教えや考え方を読み手の方に押し付けるのが目的ではありません。この日記は、僕自身が今喜ばせていただいている仏教、僕の場合は浄土真宗になりますが、そこのところをぜひ紹介したいなぁという思いで書いています。ですので、ご自身のペースでのんびりと読んでいただければ幸いです。

 

それでは始めます。

まず、「因果の道理」という言葉。「因」というのは、原因の「因」のことで、「果」というのは、結果の「果」。「道理」とは、辞書(『広辞苑』)で調べてみたら、「物事のそうあるべきすじみち。ことわり。」とありました。つまり、「因果の道理」とは、「物事の原因と結果のことわり」ということです。

 

さて、それでは具体的にはどういうことかということについて、みていきたいと思います。仏教では、全ての物事には、その原因があり、結果があるというふうに考えます。つまり、「たまたま起こった」とか、「運が悪かった」という観方を仏教では否定します。たまたま偶然に起こるようなことはなく、全ての物事には必ず原因があり、その結果が現れているんだというふうに仏教では観ていきます。

そして、その原因を、自分の中に観ていきます。つまり、「こうなったのは、あいつのせいだ」とか、「神さまのせいだ」とか、「先祖のたたりのせいだ」とか、「こうなる運命だったんだ」といったような、原因を自分以外のものに観るような考え方を仏教では否定します。

また、原因といっても単一のものではなく、一つの結果が成立するためには、複数の様々な原因があるというのです。様々な原因が複雑に絡み合って、結果が出てくる。このことは、実生活の中でもいえると思います。例えば、病気。風邪をひくにしても、「前の日に雨の中、ずっと外にいた。」ということだけで、風邪をひくことはありません。「帰ってから、お風呂に入ったりして体を温めなかった」とか、「風邪をひいた人が近くにいた」とか、「体が以前から弱っていた」とか、「手洗い、うがいをちゃんとしなかった」などなど、他にもいろんな原因が考えられます。そして、その原因が複雑に絡み合って、「風邪」という結果に結びついたというわけです。たった一つの原因から、病気になるということはないんです。

 

また、このような原因と結果の関係には、
 ・善因楽果(ぜんいんらっか)
 ・悪因苦果(あくいんくか)

ということがあります。つまり、

「善いことをしたら、楽しい結果がおこる」

「悪いことをしたら、苦しい結果がおこる」

ということです。

そして、どのような「原因」であれ、その「原因」をひきおこした本人が、その「結果」を引き受けていかなければならない。自分の善悪の責任は、どこまでも自分が受けていくということです。

 

さらに、仏教ではこの関係を、今生(こんじょう)だけではなく、前生(ぜんしょう)・今生・後生(ごしょう)の三世(さんぜ)で観ていきます。ここが、仏教の世界観において、とても重要なところです。仏教は、「死んだら終わり」という教えではない。前生・今生・後生という三世をつらぬく因果。これが、仏教で説く「因果の道理」です。(「三世」については、2011/05/11「三世と六道」で詳しくふれていますので、よかったら参照してみてください。)

 

  

さて、ではここで、一つ譬え話をします。

机の上に、一粒のひまわりの「種(たね)」があるとします。だけど、その種は、いつまでたっても芽を出しません。

当たり前ですね。種は机の上では芽を出すことはできません。

じゃあ、芽を出すにはどうしたらいいか。

まずは「土」。種が芽を出すには、土の中に植える必要があります。だけど、深すぎてはいけません。適度な深さに植える必要があります。

次に「水」。種が芽を出すには、水が必要です。だけど、水が多すぎてもいけません。適度な量である必要があります。

次に「光」。種が芽を出すには、太陽の光が必要です。この他にも、種が芽を出して育つには、様々な要因が必要となってきます。

そして、ひまわりの「種」は、美しいひまわりの「花」を咲かせます。

 

さて、ではこの話を「因果の道理」の話と結び付けていきます。

まず「種」。これが「因」です。

次に、種が育つまでの「土」「水」「光」などの様々な要因。これを「縁(えん)」といいます。

そして「花」。これが「果」です。

つまり、「因」が様々な「縁」にふれることによって、「果」が生まれる。(上では、様々な原因が複雑に絡み合って、結果が生まれるというふうに紹介してきました。)

 

そして、ここからが大事なところです。それは、「ひまわり」の種から、「ひまわり」の花が咲いたということです。当たり前のことですが、いくら頑張って育ててみたところで、「ひまわり」の種から、「チューリップ」の花が咲くことはない。「ひまわり」の種からは、「ひまわり」の花しか咲かない。(上では、善因楽果・悪因苦果というふうに紹介してきました。)

では、「自分」はいったいどんな「種」を持っているのか?その「種」は、いったいどんな「花」を咲かせるのか?(上では、自分の善悪の責任は、どこまでも自分が受けていくというふうに紹介してきました。)

そこのところを、仏さまの説かれた「法(ほう)」をたよりとして、深く深く観つめていくのが「仏教」です。

 

さて、今回は仏教の世界観における「因果の道理」について紹介しました。

また、回を改めて、今まで紹介してきた仏教の「世界観」や「罪悪観」、「無常観」ともからめながら、今度は仏教の中でも、浄土真宗の教えについて、僕が聞かせていただいているところで、紹介していきたいと考えています。